2009年11月10日 (火)

(コレクターズ・ガイド)
アーティストのキャリア
どの時期の作品をコレクションすべきか?

Bs063
Irving Penn "PASSAGE"

今年は、アーヴィング・ペン、ウィニー・ロニスなど、戦後を代表する写真家がなくなった。有名アーティストは長生きの人が多い。上記の作家はともに90歳代だった。好きなアーティストのキャリアが長い場合、どの時期の作品を買ったら良いか悩むところだと思う。

優れたアーティストはキャリア初期に自分のスタイルを構築し、それが次第に認められて地位を確立させる。しかし、ワンパターンを続けると飽きられてしまうので、本質は変えずに新たなスタイルを提示し続けるのだ。そして年齢を重ねるとともに、作品表現の重点がヴィジュアからコンセプトへとシフトしていく。若いとき時と比べ体力や視力そして直感が衰えるのを、人生経験を重ねたことで円熟味を増した思考力で補うようになる。若いときには気付かなかった視点で作品提示できるようになる。このように変化できた人は年齢を重ねても現役で作家活動を継続できる。

一方、天才的な能力を持つ人はキャリア後半で作品がマンネリ化することが多い。若いときに優れた感覚に頼っていると、年齢を重ねると新しいものが生み出せなくなる。そして過去の栄光にすがり同じようなスタイルの作品を作り続けることになる。実績があるので最初のうちはある程度売れ続ける。 それが目先を変えて作品サイズを拡大したりするようになると、近作に対する市場の興味が急激にしぼんでいくのだ。

歴史の長い絵画市場の場合、最も価値の高い作品は作家のキャリア初期か、キャリア後期に制作される場合が多いという。そしてプライス・カーブは最初は徐々に上昇して、その後急上昇、そしてフラットになり安定してくる傾向がある。だから、投資的な要素を考える場合、キャリア初期や、まだ未開拓分野の作家を見つけ出すことが重要だといわれている。若い作家はそのまま消えていく人も多いのでリスクヘッジの為に複数作家を購入していくことも必要になる。以上が歴史の浅いアート写真にもそのまま当てはまるかどうかは不確定だが、参考にはなるだろう。

イメージ主体に作品を見る人には、作家のキャリア後期作は、若い時代と比べて魅力が弱く感じるかもしれない。コンセプト重視にシフトした人の作品を理解するには見る側にも能力が求められるのだ。作家のそれまでのキャリアを総合的に捉え、その流れの延長上に作品を認識しなければならない。最新作だけを単独で見ても、その作品性は正しく理解できないのだ。これが、アート鑑賞やコレクションの面白みであるとともに、難しいところだ。

それゆえ、アンドレ・ケルテス、アーヴィング・ペンなどの巨匠でも、キャリア後期作品の評価は高くない。アート相場は、様々なレベルのコレクターがいる。どうしてもイメージ人気によりプレミアムが付いてしまうのだ。投資で買うなら、キャリアのベスト期の代表作を、高額でも狙うべきだ。それらが一番流動性が高いからだ。しかし、もし本当にその作家が好きならば、キャリア後期にはお買い得作品が多いのだ。
アンドレ・ケルテスはパリ時代の作品人気が非常に高い。しかし、後期のニューヨークの作品のなかにも彼らしい秀作があると思う。パリ時代のヴィンテージ・プリントは高額だ。2005年には、1926年作の「Chez Mondrian」が約46.4万ドル(約4600万円)で落札されている。しかし、ニューヨーク時代のヴィンテージに近いプリントは1万ドル(約100万円)前後から入手可能なのだ。
同じような例はほかにもある。特に景気後退期には、需要が人気作品に集中しがちになる。イメージだけにこだわらなければ良い作品をリーズナブル価格で購入できるチャンスは大きくなる。

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2009年11月 3日 (火)

(アート写真最前線)
ウィリー・ロニスが亡くなる
市場で過小評価されているフランス人作家

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戦後フランスを代表する写真家の一人、ウィリー・ロニスが99才で亡くなった。90年代の日本では、ロベルト・ドアノー、イジス、エドワール・ブーバなどとともにフランスのヒューマニスト系写真家のグループ展でよく紹介されていた作家だ。 私は、1992年にプランタン銀座で開催された写真展「I love Paris」展のチラシに使われた「バスティーユの恋人たち」という作品が印象に残っている(上の写真)。写真家名は知らないが、イメージは見たことがあるという人は多いと思う。もちろん彼の仕事はフランス本国では非常に高く評価されており、ナダール賞の受賞(1981年)、アルル写真フェスティヴァルの名誉招待作家にもなっている。死後にはフランス政府へ作品寄贈することが早くから決まっていた。

しかしアート写真市場の中心地、米国では彼の認知度はあまり高くなかった。50年代にはニューヨーク近代美術館でのいくつかの写真展に作品がセレクションされているが、北米ギャラリーでの個展は80年代中ごろになってからのようだ。オークションでの取り扱いが増加したのは最近のことだ。
彼のモダンプリントのギャラリー店頭値段は、11X14インチサイズで約50万円からだ。 写真市場の歴史が浅い日本人の感覚では高額だが、同世代のアメリカ人作家と比べると決して高くない。さらに調べてみたら、一部ヴィンテージを除いてオークションでの店頭価格を超えての落札はほとんどないようだ。これはセカンダリー市場で価格プレミアムがないという意味。既に高齢だったことを考えると、彼の人生が長くないことをギャラリー価格は既に織り込んで上昇していた感じだ。90年代の前半には、彼の代表作でも500ポンド(@240で約12万円)だった。

ロニスを含む、フランス人写真家の相場があまり高くないのは、米国の60年~70年代に訪れた写真ブームの流れから彼らの作品が外れていたことによる。 この時代に、いままでの主な情報提供メディアだった写真がテレビにその地位を奪われる。ロバート・フランク、ウィリアム・クラインらが登場し、いままで公共的な役割を果たしてきた写真は他のアートと同じようにパーソナルな視点を表現する手段へと大きく変化する。 その後、ダイアン・アーバス、ゲイリー・ウイノグランド、リー・フリードランダーなどが登場して現代写真がアメリカ中心に大きく発展していく。欧州の多くの写真家はその間もフォト・ドキュメンタリーの報道写真の流れを踏襲していた。アメリカの新しい写真家との違いは何かというと、時代の価値観との接点の有無と、写真家がそれをどのように解釈しているかが提示される点だ。
フランスのヒューマニスト系といわれる写真家たちは時代との接点が必ずしも明確ではなかったかもしれない。ロニスの写真集「Sur le fil du hasard」などを見るとテーマ性よりもヴィジュア優先で作品がセレクションされている印象は強い。しかし、彼らは決して世の中を記録しようと考えていたのではなく、人間愛の視点で労働者階級の日常生活をその内側から撮影していた。また、普段は見過ごしがちな写真でしか気付かない一瞬の面白さをヴィジュアに取り込んでいた。多くの作品は、依頼された仕事ではなく自らのプロジェクトだった。それはまぎれもなく社会を捉えるパーソナルな視点のひとつだと思う。その結果、それらの写真には、当時の街や社会の雰囲気が写っていた。しかし、同時代に生きる人にとって、それは当たり前のシーンだったので作品としての価値を認識出来なかったのだ。
彼らの写真が本価格的に評価されるようになったのは90年代以降。時代の価値観が多様化したことで、パーソナルな視点で撮影された優れたドキュメント、ファッション作品がアートとして認識されるようになってからだ。ロニスらによる40年~50年代のモノクロの都市風景を多くの人がノスタルジックに感じるようになった。それは、現代の価値観が昔から大きく変わったことを見る側に改めて気付かせてくれるという意味だ。

アート写真の値段は最大市場である米国のコレクター好みが強く反映される。それは作品の優劣と市場人気は必ずしも一致しないということ。投資の為に写真を買うなら米国人の動向は重要な判断要素となる。しかし、自分の感性を生かしたアート写真コレクション構築を考えるのなら、フランスのヒューマニスト系写真家は検討の余地がある分野だと思う。過小評価されている、日本人好みの写真作品がまだ多いのだ。

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2009年10月27日 (火)

(アート写真最前線)
写真が売れない日本市場
潜在需要と供給のミスマッチ

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外国人作家の売行きは好調だ。

日本ではアマチュア中心に非常に多くの人が写真を撮影する。近年になってカメラ付携帯電話の普及、デジタルカメラの技術進歩と価格低下で写真人口は増加中だ。いままでは男性中心だったカメラ趣味は女性にも広がっている。
一方で、写真表現で真摯にアート作品作りを行なっている人はいまだ少数だ。また写真はアートとして一般的には認識されておらず、コレクションする人も欧米と比べるとまだ少数。アーティスト、コレクターが少ないことから、作品を販売する商業ギャラリーも少ないのが現状だ。

日本では写真は売れない、という嘆きを写真家から聞くことが多い。確かにギャラリーの店頭でもその事実を実感している。実際に作品が定常的に売れるアーティストの数は決して多くないのだ。
しかし、売れないことの意味合いは一般に理解されているのとやや違うという印象を持っている。多くの人は日本には写真を買う習慣がないことから需要が欧米と比べて極端に少ない、また写真を評価できる人が少ない、と考えているようだ。
確かに資産を持っている60歳代以降の層では、写真はアートではなく記録メディアと理解されている場合が多い。しかし、新人類世代(50歳代前後)よりも若い人たちは写真をアート表現と認識しており、ビジュアル感覚も決して欧米と比べて劣ってないと思う。戦後の混乱の中で青春時代を過ごした世代と比べ、上記の新しいビジュアル世代は若い頃から世界最先端のビジュアルを掲載した洋書、洋雑誌に触れていた。80年代の好景気を経験した人なら世界中の有名写真家の写真展でオリジナル作品にも数多く触れている。

最近はヴィジュアル感覚とともに、日本人のアート写真理解力も向上してきたと感じている。アート写真の本当の面白さは、私たちが普段見逃しているようなユニークな視点をアーティストが写真で気付かせてくれること。優れた作品ではイメージは入り口で、その背景には深い意味を持った世界が広がっている。これに気付くためには、見る側も写真史や社会文化の学習が求められることがやっと理解されてきたのだ。
いままでの日本人コレクターは、自分の好きなイメージを購入していた。これからは、イメージだけでなく、作家性、作品テーマで写真がコレクションされるようになると思う。その流れは、既に写真集の売り上げ傾向に現れている。魅力的なヴィジュアルだけでなく、コンセプトの理解なしでは良さがわからない本も着実に評価されるようになっている。写真はあまり売れないものの、洋書写真集は不景気でもかなりの冊数が売れているのだ。円高やネットの普及により従来よりもはるかに安く購入可能になったこともあるだろう。 重要な点は、写真集を買う人は将来のオリジナル・プリントの購入見込み客ということだ。

以上から写真が売れない本当の背景が見えてくる。
日本にも欧米と同じように写真をアートとして理解して購入に興味を持つ層が確実に増加している。ではなぜ、写真が売れないのだろうか?彼らの多くはまだ若いので収入が多いとはいえない、写真集は買えるがオリジナル・プリント購入の余裕がまだないのだろう。これは時間が経過すればしだいと改善すると思われる。
もうひとつ考えられる理由は、写真集を買う延長上に手頃な価格帯の優れたアート写真の選択肢が少ないことではないだろうか。写真集を発表しているような有名外国人作家の作品は高価で入手も容易でない。新しいビジュアル世代は自分たちの感覚を信じ、本当に好きなものにしか興味を示さない。中高年のブランド志向と対照的なのだ。潜在需要は大きいものの、彼らが欲しい写真が市場にあまり供給されていないのではないか。
欧米でもオークションで売買されるような高額な有名作品は市場のごく一部。中心はインテリアにも飾ることができる質が高い5万円から15万円くらいの価格帯の作品なのだ。日本には、難解なコンセプト、高額、大判サイズの現代アート系写真と、イメージ重視の低額写真の供給はあるが、明解なコンセプトと親しみやすいイメージを持った写真作品がほとんど市場に提供されていない。写真があまり売れない原因は、顧客が求める質の作品供給が少ないからなのだ。

米国のアート写真市場も実は30年ほどの歴史しかない。初期はアンセル・アダムスなどごく一部作家のモノクロ作品しか扱われなかったそうだ。その後長い低迷期を経て、幅広い時代、分野の写真が扱われるようになった。新人作家でも普通に買われるようになったのは90年代以降になってからなのだ。
過去に米国で起きたことは日本でも起きている。現在の日本はやっと写真の売買がビジネスとして成立しはじめた状態なのだと思う。繰り返しになるが、優れた作品であればコレクションしたいと考える人の潜在需要は確実に増えているのだ。今後は、関係者の市場拡大への努力が重要なのは明らかなのだが、日本は作家やギャラリーにとって厳しい市場であるかもしれない。欧米ではコレクターは市場とともに成長してきた。その過程の試行錯誤で関係者は実力をつけてきた。しかし、日本のコレクター予備軍はすでに欧米並みの高いアート写真の理解力を持っているのだ。

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2009年10月20日 (火)

古いが一番新しい
ファイン・アート写真の前衛とは

Blog
(C)Tomio Seike

欧米のアート写真が扱われるオークションでは、ファインアート・フォトグラフスとコンンテンポラリーアートとが明確に分かれている。しかしその前提は、長い写真史の歴史を踏襲したファインアート・フォトグラフスがあり、そこから現代アート系の写真が派生してきたと考えられている。たとえばドイツのベッヒャー派アーティストは現代アート写真でよく知られるが、ベッヒャー夫妻にはアウグスト・ザンダーなどの影響が強くあるのだ。

しかし日本には明確なアート写真の歴史、伝統のようなものはない。欧米で流行している現象をとらえて、その表層的なスタイルを取り入れる場合が多い。その先頭に立つマスコミは、モノクロ写真は時代遅れで、写真はまるで現代アート系しか存在しないように取り扱いがちだ。
ギャラリーも状況は同じ。カラーはもちろん、モノクロ写真の場合も、現代アートらしくなることから、深いテーマとの関連がなくても大きく引き伸ばされて展示することが多い。現在の日本では、小さいモノクロ写真よりも大きな現代アート系の写真を見る機会の方が多くなっている。日本で写真がアートとして一般に受け入れられていない背景はこのあたりの事情によると思う。
私もかつてはこのような状況に疑問を持っていた。しかし長年ギャラリーを行っていると、あらゆるものが節操なく混在している現在の日本文化を受け入れるようになってきた。これは妥協ではなく、正しい現状認識がないと、その国に住む人がリアリティーを感じる独自のアートが生み出せないと理解するようになるからだ。このことについては機会を改めてまた触れたいと思う。

現在、展示しているトミオ・セイケの「Eighteen Month」は現代アートとまったく相反する欧米の写真史の流れを踏襲している作品だ。興味深いのが、このような写真を知らない若い世代にはセイケ作品の展示が凄く新鮮に見えるらしいということだ。現代アート系の写真は、アイデアと刺激重視の奇をてらったイメージが多い。カラーの巨大サイズ作品が一般的で、絵画のように単独に展示する。
一方、今回の展示作品は、判りやすいテーマ、地味に見えるイメージ、モノクロームの小サイズ写真がブック式マットされて同サイズのフレームにシンメトリーに展示。1枚でなく全体で作家の世界観を提示している。欧米の写真ギャラリーではごく当たり前の展示なのだが、考えてみれば最近の日本ではこのような展示は決して多くない。実際、写真展の主催者はあえて大きさやカラーでアクセントを設けるように工夫する。日本の観衆は内容よりもイメージでひきつけられる場合が多いので、見る側が物足りないと感じないようにと配慮するからだ。

今回のトミオ・セイケ写真展「Eighteen Month」で私が注目したのは、多くの人が写真を見て落ち着く、ほっとする、見とれてしまうといった印象を語ってくれたこと。大きさ、サイズ、色、アイデア、刺激で聴衆の目を引くことを意識する現代アート系写真の対極のアプローチは逆に顧客とつながる最先端のアイデアのひとつかもしれないと気付いた。
日本の市場は歴史がないので伝統へのしがらみもなく、世界で一番自由に感じることが出来る場所といえなくはない。そして、そこに住む写真好きの人は欧米の伝統的なアート写真も新しい現代アートとしてとらえているのではないだろうか。
デジタル化が進み、銀塩写真は保護される伝統工芸のようなポジションになっていくという専門家の指摘がある。しかし、それはアート表現でない写真にのみ当てはまるのだ。欧米でいまでも存続している伝統的ファインアート写真。もしかしたら、将来的にそのスタイルと精神は、最先端の現代アートのひとつとして生き残るのではないだろうか?古いが一番新しい、という状況が日本では欧米よりも先んじていま起こっているのかもしれない。

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2009年10月13日 (火)

アーヴィング・ペン(Irving Penn)
戦後の新しいアメリカン・ヴィジョンを提示

Bs040
大人気の写真集 Irving Penn "Flowers"

アーヴィング・ペンが先日92歳で亡くなった。
私は90年代初めにニューヨークのオークション下見会で見た、タバコの吸殻を撮影した大判プラチナ・プリントのことを思い浮かべた。現代の消費社会をテーマにしたアイデアの秀逸さ、シンプルでモダンなイメージ、モノとしての美しい作品の存在感に圧倒され、感動した。このシリーズは一種の時代のドキュメントで、それをアート作品として提示する方法論としてサイズを大きくして高クオリティーのプラチナ・プリントを制作したのだ。その時に写真集という限られた紙面上の写真と、現物との明らかな違いを初めて実感した。
後になって知ったのだが、彼は完璧なプリントを求めて高価なプラチナのシートを自分自らの手で膨大な時間をかけて作り続けていたそうだ。 シルバープリントと違い、プラチナプリントは20世紀初頭の伝統的な手法でシートはすべて手作りなのだ。
彼の極端な本物志向は有名だった。写真集「Passage」には、多くのグラスが乗ったトレイが落下するシーンを撮影するときに、ペンが高額なバカラ製グラスに強くこだわったエピソードが紹介されている。また、1990年にヴァニティー・フェアー誌でレモンを撮影した時の逸話も有名。まず、500個のレモンを購入し完璧なフォルムのものを探し、その後に完璧な写真を求めて500ショットの撮影を行ったとのことだ。

これらは彼がもともと画家志望であったことが影響していると思う。当時は、欧米でもシャッターを押すと写ってしまう写真は絵画などと比べてレベルの低いアートとみなされていた。彼はアートとして写真表現の可能性とその境界線を広げようと模索していたのだと思う。

Bs063
写真集 "Passage"

ペンの写真の魅力は作品のクオリティーとともに、一貫していると感じられる作品の背景にある精神性だろう。ヴォーグ誌のアレクサンダー・リーバーマンは、ペンは最終的に、はかなさの記憶、束の間の時間、際迫った死を写真に留めようとしていた、との述べている。人生に対するこのようなクールな姿勢が彼のモダンなヴィジョンの根底にあったのだ。だから何を撮影しても作品の魅力が揺らがなかったのだろう。

高齢になったのペンの近作は、デジタル・プリントだった。しかし、デジタルにもかかわらずまるで現代アートのような高額な値段がつけられており、一部に批判もあった。デジタル・プリントの価値はサインの価値だ。作家のサイン自体に価値が出るためには過去の実績の積み重ねが必要だ。60年以上のキャリアがあり、また同じ傾向の絵柄の銀塩、プラチナの初期作品がオークションで高額取引されていたことを考えると、デジタル作品の数百万円の価格に説得力がないことはないとも感じていた。 写真集でもペンのサイン本は、流通量が非常に少なく、だいたい5万円以上する。ちなみにアヴェドンのサイン本は数万円で買えることもある。

彼の死は作品相場にどのような影響を与えただろうか。死の翌日の8日にクリスティーズ・NYで彼の作品13点がオークションにかけられた。当然、参加者は彼の死を知らされており、その点から通常よりもプレミアムがついて取引されたと思われる。
結果は12点が落札され、予想落札価格の上限を超えたのが5点、下限以下が1点、残り6点が予想範囲内で取引されている。
昨今の不況でオークションハウスは予想落札価格を押さえ気味にしている。今回の結果を見るに、彼の死の影響は大きくなく、もう少し低いレベルだっかもしれないものの市場はほぼ適正価格まで調整してきた感じだ。つまり、彼は既に高齢だったので、亡くなることは市場が既に織り込み済みだったということだろう。ロバート・メイプルソープのときとほぼ同じだ。
ちなみにペンの落札最高額は1971年制作の貴重なプラチナ・プリントによる代表作品"Cuzco Children,1948"。2008年春のクリスティーズで約52.9万ドル(約5819万円)で落札されている。たぶん、この記録が破られることはしばらくないだろう。

これで、戦後のファッション写真の巨匠のペン、アヴェドン、ニュートンが他界したことになる。時代背景が彼らが活躍した時代から様変わりし、新世代のメジャー作家が出現しにくい状況になっている。たぶん将来的に20世紀ファッション写真は改めてアートの視点から見直されると思う。 アーヴィング・ペンはその中でも最重要人物の一人。最近まで続いていた全仕事の本格的な再評価が待たれるところだ。

ご冥福をお祈りいたします。

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2009年10月 6日 (火)

アート写真市場の動向
注目される秋のニューヨーク・オークション

Blog
クリスティーズ、ニューヨーク

よく美術市場は景気悪化から1年くらい遅れて影響が出てくるといわれる。これは人間心理が簡単に変わらないから起こる現象だ。相場は人間の心理が大きく影響する。長い好景気の時代を経験していると認識を変えるのに時間がかかるのだ。また、最初は短期的に回復するかもしれないと希望的観測を持ったりする。しかし不況が1年以上続いてくると、コレクターの認識が完全に変化して価格調整が本格化するのだ。
これは株式相場で、中長期的な上昇トレンドが下降トレンドに変わったときに起こる現象と同じ。長期視点の投資家は高値付近で売ることは出来るのだが、市場が下落するとこれを買い場と考えてしまう。トレンドが変わったのに、過去の経験則から上昇トレンドの調整かも知れないと考えるからだ。そして損切りが出来ずに不良な塩漬けのポートフォリオになってしまう。これは日本のバブル崩壊の後に起きたことで、その大きな下降トレンドはまだ続いている。

今春から株価や経済指標が好転をはじめ、エコノミストから景気先行きの楽観論が聞かれるようになっていた。しかし現在の不況が80年代から続いた米国経済の借金体質の調整であるならば、これは短期的な景気循環トレンドではなく、もっと大きな構造的な変化が世界的に起こりつつあるのということだ。そうなるとリーマンショックの影響は来年以降も続くことになるだろう。
そんなことを考えていた矢先に、急激な円高と株価の急落が起きている。米国で雇用回復の遅れを表す経済指標が相次いで発表されたことによる。そうなると今度は景気の二番底が来るとの警告がエコノミストから発せられるようになってきた。

さてアート写真市場だが、過去1年間の市場は弱含んだものの予想外に堅調だった。しかし市場の真価が問われるのは、不況がまだ続くかもと多くが考え始めたこれからかもしれない。
その点、今秋のニューヨークのオークションは注目だ。カタログ編集をみるとオークションハウスが十分に警戒していることが良くわかる。まず出品数が大きく削られ、写真史で評価されている作家の代表作の比率が従来以上に高くなっている。かなり選択され絞り込まれた跡が見え隠れするのだ。昨年のオークションで、不落札だった主にプライマリーで活躍する現代の写真家、ファッション系、現代アート系の作品数が大きく減少している。日本人では、杉本博司以外の出品が激減だ。売れそうもない作品はオークションでは取り扱ってくれなくなっている。
出品作には落札価格予想の上限と下限が設定されており、これに相場が反映される。今回は、1年前には予想上限を超えて落札された人気作家の人気イメージについても非常に控えめな設定になっている。予想価格が引きあがられることはなくほぼ昨年と同じ価格がつけられているのだ。
今年の厳選された作品セレクションと出品数では、不落札率があまり高くなることはないと思う。しかしどの価格帯で実際に入札されるかに市場心理が現れる。例年に増してオークションの価格動向が興味深い。セカンダリー市場の地合いの悪さはギャラリーの店頭市場にも少なからず影響を与えるのだ。

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2009年9月29日 (火)

日本の地方はどうなるのか?
会津柳津への旅

Blog1
圓蔵寺

先日、馬頭の広重美術館に行ったことを書いた。その後は足を少し伸ばして福島県会津柳津の「福満虚空蔵尊 圓蔵寺」へ向かった。ここは約1200年の歴史がある弘法大師にゆかりのある寺。高台にある本堂舞台からの只見川の眺めが絶景で、会津の民芸品「あかべこ」の由来とも言われている開運撫牛という置物があることでも知られている。
以前、高速道路やバイパス沿いにフランチャイズの画一化された大規模商業施設が次々と誕生していることを書いた。日本の地方風景がかつて米国で起きたように急速に均一化しているのだ。前に紹介した写真家ジェフ・ブロウスが写真集「Approaching Nowhere」(Norton、2006年刊)で訴えているような状況が日本でも起きている。
先日、藤原新也の写真集「俗界富士」(新潮社、2000年刊)を見直す機会があった。彼は聖なる山として表現される富士をあえて人々の生活目線から捉えている。そのなかには、店舗が立ち並ぶロードサイド沿いの風景もある。しかし、撮影された90年代はまだ地域色が豊かで、美的ではないとしても個性的。目新しいのはまだコンビニくらいだ。グローバル経済の波が本格的に日本をも巻き込みはじめるのは21世紀以降のことだ。

さて今回は高速道路よりも離れた地方部をたずねたのだが、そこにはまったく違った光景が展開されていた。なんで地方の状況に興味があるかというと、変化を見つける視点はアート作品を制作する上でのヒントになるからだ。私は特に地方経済の専門家ではないので思い込みなどがあるかもしれないが、都会からの旅人として感じたままを書いてみたい。

Blog2
会津柳津にて

まず街道沿いには廃業した温泉や宿泊施設などのリゾートブームの陰りを象徴するシーンをあまた見かける。高度経済成長期の負の遺産だ。そして町の中心部にはこれもお約束になった感のある寂れた商店街がある。馬頭も会津柳津もそんなやや寂れた印象だった。
それと対照的にギャップを感じたのは、少し離れた場所に新しく立派な「道の駅」が建てられていることだ。これは道路整備予算や地元市町村が受け取る様々な補助金で作られる公営のドライブイン。「駅の道」の前後の道路沿いには廃業した小規模ドライブインが立ち並ぶ。無料の大規模で新しい休憩施設のほうが利用者には便利だ。民間は太刀打ちできないだろう。そして、二つの町には偶然かもしれないが立派な美術館も建てられていた。

今回は幾つかの「道の駅」に立ち寄った。みやげ物をさがしてみたが、取扱商品にあまり個性がなかった。日持ちするような、乾物、漬物、名産品を使用しアイデア重視で製造された商品群、そして地元で採れた野菜類が定番だ。私の個人的な印象では、「道の駅」は地元振興の考え方中心に運営されている感じだった。施設内のレストランなどのサービスは、利用者のニーズではなく地元従業員の利便性を優先している。本来サービス業は手間のかかる仕事を行いお金を得る職業のはずだ。また民間では考えられない、無駄が多いスペース利用も感じられた。いわゆる、都会ではもはやあまり見かけないお役所仕事になっているのだ。
政権が変わり、予算配分の大幅な見直しが行われるという。政策の目玉である子育て支援や高速道路無料化が行われれば、今までのように特定財源から地方部への予算配分の仕組みも変化するのだろう。日本では官製企業、政府外郭団体、官相手の企業に勤める人は就業人口のなかでかなりの割合を占めると聞く。不況などでも比較的安定していた彼らが今回の政権交代で大きな影響を受けると思われる。今後、予算が減る中で彼らが生き残るには、利用者のニーズや満足を高めることを考えなければいけないだろう。いままでは税金のおかげでぬるま湯的な経営をしていた公共施設が今度は厳しい生き残り競争に直面することになるのだ。

しかしよく考えると、「道の駅」を作るような地方振興は地方も都市部と同じように経済成長を目指せという戦後の発想だろう。もはやそれが不可能であるのは明らかだ。箱物などのハード面ではなく、ソフト面つまりアイデアで相応の地域振興を考える時期に来ているのではないか。
たとえば南会津の前沢曲家集落などは、茅葺の古民家が山間に立ち並ぶだけの場所だがとても魅力的だった。都会からの旅行者は地方に都会的なものを求めないのだ。
また意外だったのが、「道の駅」には年配者のグループが多くいて、「福満虚空蔵尊 圓蔵寺」などには、若いデート中のカップルが目立っていたこと。古い観光地はなにか昭和の残り香があり、若者が良く使う言葉で表すと「いい感じに」寂れていた。私も、古い観光名所には懐かしさを感じた。このへんに何か地方活性化のヒントがあるのではないだろうか。

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2009年9月22日 (火)

トミオ・セイケ トークイベント
「トイレットに写真を」 & 新作制作の背景

Blog2
(C)Tomio Seike

先週末に行われた、トミオ・セイケによるトークイベントの内容を要約して紹介します。約1時間に渡って、本人も自宅で実践しているという写真をトイレに飾ること、そして新作誕生の数々のエピソードを語っていただいた。

1.「トイレットに写真を」
80年代半ば、ロンドンのギャラリーとはじめて契約した。そのギャラリーにはトイレが2つあり、1つは来客用+男性スタッフ用、もうひとつは女性スタッフ用だった。
女性スタッフ用のトイレはデスクの奥にあるのだが、あるときトイレの戸を開閉する際に見える壁に自分の作品のポスターが貼ってあるのが偶然見えた。その時は、トイレに自分の作品が・・と不快に思い、何故だろうと気になったが、当時の自分はまだ新人でその理由を聞くわけにもいかず、また女性トイレなので入って確認するわけにもいかず、そのまま時が過ぎた。
イギリスでは一般の家庭でもトイレは2つ以上あり、それらは使用人用と、主人用とにはっきりと使い分けられている。
ある時、とある写真コレクターの家に呼ばれた。ロンドン郊外の大きな家だが、トイレに入って驚いた。壁や水回りの白に木材の黒のコントラストが美しい設えに写真が数点美しく飾られていた。その時は、これがトイレなのか?こういうスペースに写真があるのも悪くないなと驚いた。トイレに絵画などを飾っているのは今までにも見たことがあるが、通常は作品展示にここまで手は掛けられていない。
現代人はとても忙しく、一人になる時間がない。唯一トイレは他人と隔絶している空間だ。そこに写真があるのは理想的ではないかと思うようになってきた。ギャラリーや美術館は他人と空間を共有している。狭いトイレは個人が写真と向き合うのに最適ではないか。
今日は写真を撮られる人がたくさんいらっしゃると思うが、自分で撮った写真をトイレに飾って向き合ってみてはどうか。写真を買うということのきっかけになるかもしれない。ちなみに、私は東京の自宅に自作を展示している。

2.「Eighteen month の背景」
長年の友人マーガレットが家を買うかもしれないというのでその家を一緒に見に行った。そこはある女性が終の住処として買った400年以上たつ古いコッテージ。しかし彼女は病気になり18ヶ月しか住むことができなかったそうだ。その女性の友人経由マーガレットに購入の話が来たとのことだった。亡くなった女性の年齢が自分と同じだったことも気になった。
家に入ると、今まで経験したことのない空気、緊張感、重さを感じた。私は特に霊的なことを信じる人間ではないが、空気が重いという感じがあった。そこは亡くなった前所有者が住んでいたままの状態だった。マーガレットがこの家を購入し、移り住めば今感じたものは全てなくなってしまう気がして、その場で写真を撮らせて欲しいと頼んだ。またこの日以降も撮らせてもらえるように関係者にとりあってもらった。こうして初めてその家を訪ねた2007年10月14日から12月初旬まで計5~6回かけて撮影したのがこの展示している作品だ。
最初の2~3回は、家の中を見て回ると絶えず重い空気のようなものがついて回る感じがあったが、そのうち「後は好きにやってくれ」という許可を受けたような感じに変わった。最初は「お前、誰なんだ」という感じだったのが承諾してもらえたような感じだ。
今回は、ここで感じたものを写真にしたい、という強い思いがあった。それは、彼女(前所有者)はこれで満足していたのだろうか、やり残したことが数多くあったのではないか、という視点で撮影したということだ。普通は自分の住む空間を時間をかけて自分好みに変えていくだろう。早く亡くなったことで彼女がやりたくてもできなかった、という思いを感じたのが作品制作の強い動機だった。
撮影時にはそのまま何もモノを動かすことなく撮っている。そこで自分の感じるものを表現しようとしたのであって、そこにあるモノや場所を撮影したわけではない。

3.主な質疑応答
Q.デジタル、銀塩へのこだわりについて
A.どちらで撮るのが好きかと言えば、銀塩のほうが好きだ。しかし、デジタルは日進月歩で進化している。また、将来フィルムを使うことができなくなることも想定しなければならない。デジタルもやっておく必要がある。様々な最新デジタルカメラを使用してみるのはそのことによる。

Q.カラーは撮らないのか
A.私のカメラにはいつもトライXなどのモノクロが入っている。カラー作品を自分が欲しいと思ったことがない。だから撮らない。今後自分が欲しいと思うカラー作品に出会えば、カラーをはじめる。

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4.トークイベントを聞いて
セイケが古民家の室内ではなく自分の感じたものをそこで撮影したというのは興味深い。 本作には人は写ってないが、インテリアのオブジェ類を通して撮影された前所有者のポートレート写真なのだ。
またこのインテリアにセイケは、「彼女がやりたくてもできなかった、という思いを感じた。」と語っている。この不完全さを見る視点は、日本古来の侘びや幽玄の視点と重なると思う。不完全さは余白であり無でもある。そしてこれは不完全を美として受け入れる姿勢なのだ。
そうなると18か月という時間が非常に重要になってくる。もし住人が何年も住み続けていたら部屋の中のたたずまいは彼女の目指すイメージに近づいていたはずだ。そうなるとセイケの感性が入る込む余地があったかどうかは疑問だと思う。インテリアは未完であったが故にセイケの写真作品により永遠を獲得したのだ。これは日本人写真家にしか真に表現できないと思う。
一部の外人コレクターがセイケの写真を見て日本的ということがある。それは写真に存在する微妙な距離感、もしくは余白なのではないかと考えてきた。マイケル・ケンナは自作を俳句のような写真と呼んでいる。写真の持つ気配が、見る側が何か考えさせらる余地を持つという意味だ。私はなにかそれに人工的な響きを感じていた。日本人以上に日本文化を研究している外国人に抱く不自然さのような感覚だ。一方セイケの多くの写真にはその感覚が自然としみ出ている印象がある。たぶんスタイルではなく精神が重要で、それは歴史の積み重ねを通して受け継がれるものなのだろう。

今回のトークでは彼がそんな感覚を意識していることが明らかになったと思う。デビュー作の「ポートレーツ・オブ・ゾイ」の場合は、モデルになったゾイの成長による変化がテーマだった。彼は被写体の変化を写しだすために距離感を一定にするとともに、今後の成長や変化の余地が意識していたのだろう。
実は私どものギャラリーは、現代日本人がリアリティーを感じる写真の紹介をテーマにしている。それらをまとめるキーワードとして侘びの視点を意識している。私はセイケはそのような範疇の日本人作家の一人と理解しているのだ。詳しくは将来的に何らかの企画展考えているのでその時に説明したいと思う。

日本の写真コレクターはイメージ重視の人が多い。それが作家性を愛でる欧米のコレクターとの大きな違いだ。だから作品テーマが新しくなりモチーフが変わると全く興味を持たなくなることがよくあるのだ。今回は古いコッテージのインテリア内だけで撮影された作家性が重視された作品だ。作品のイメージ自体はやや地味と感じられるかもしれない。しかし、一緒に生活するには心地よいモノクロ・イメージばかりだと思う。またその背景を読み解こうとすると非常に多様で深みのある世界が広がっている。
私は日本人コレクターのアート写真リテラシーは若い人中心にこの10年で大きく向上したと思っている。観客の本作品に対する反応が非常に興味深い。

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2009年9月15日 (火)

トミオ・セイケ新作「Eighteen month」
いよいよ世界初公開!

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(C)Tomio Seike

2009年秋は、トミオ・セイケの「Eighteen month」でスタートする。これは2006年の「Glynde Forge」以来となるファン待望の新作となる。舞台は英国サセックス州にある築400年以上のコテージ。終の住処としてそのコテージを購入したが、病に冒され僅か18ヶ月しかこの地で暮らせなかった女性の思いをカメラで紡いだ作品だ。                  彼の作品はほとんどが欧州で制作される。作品の主要コレクターたちが欧米在住なのだから致し方ないことだろう。従って撮影された場所の情報や歴史文化を知らない人には作品背景が理解しにくい点があると思う。そのため、日本人コレクターはどちらかというと写真技術、作品の持つ雰囲気、プリント・クオリティーを愛でることが多かった。実際にセイケをライカ・マスターとして尊敬している人が日本では多いのではないだろううか。
新作でセイケは、「限りある人生を」という普遍のテーマを明確に出している。撮影された英国南東部サセックス州のことを知らない日本人オーディエンスでもメッセージが明快に判る作品だ。これは、20代の女性の成長と変化を写し撮った80年代の「ポートレート・オブ・ゾイ」以来だと思う。実はこれはいまでも日本で人気の高いシリーズ。今回の新作も「ゾイ」同様に日本人に広く受け入れられるのではないかと期待している。
私の個人的な感想だが、新作は彼の1992年の代表作「Paris」に近いという印象を持っている。彼は欧州の芸術の都パリの歴史をベースに撮影している。その上に積み重なってくるのは、ブラッサイ、ケルテスなどの写真家たちがこの地で活躍した痕跡なのだと思う。それらの歴史の積み重なりを無意識化した上で、彼は意識的に現代のパリに立ち向かい撮影したのだ。伝統的な手法で制作された、写真史の流れとつながっている作品であることが欧米市場で「Paris」の評価が高い理由だろう。
新作では、築400年以上のコテージがベース。そこにわずか18か月しか住めなかった女性の気持ちが積み重なっている。それらに彼の思いを乗せて制作されている。人間の一生には限りがあることなど誰でも知っている。しかし、忙しい生活をしている現代人は人生は永遠と妄信しているかのようだ。釈迦は誰にでも、3つの奢りがあるとしている。それは、若さ、健康、生きていること。そしてこの奢りをなくすことが迷いを断つ方法としている。「Eighteen month」はそんな当たり前のことを思い起こさせてくれるきっかけを作ってくれると思う。

写真展のプレス・リリース(pdf)

○ご案内
なお本展では、セイケ氏が自身のブログで作品の紹介を毎日1点ずつ行うことをご提案いただいた。展示作品は23点になるので、毎日ではないが会期中の23日にわたり更新していただく予定だ。リアルの写真展とウェブとが融合する新しい試みになると思う!
セイケ氏のブログはコチラです。是非ご覧ください。

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2009年9月 8日 (火)

夏休みの旅
那珂川町馬頭広重美術館

Blog

夏休みは出来るだけ行ったことのない地方を旅することにしている。東京でずっと生活していると自分の行動範囲がどんどん狭くなり、自分の頭のなかの世界しか存在しないように感じてくる。次第に、世界は想像可能な都心と郊外しかないように思えてくるのだ。それでも自分は世の中のことはほとんど知っていると信じ込んでいるのだ。都市部と地方との文化の違いや問題点もステレオタイプ的な把握しかできなくなる。アートに関わる人間としてこのような思い込みほど危険なものはない。だから世界は自分の想像をはるかに超えた広がりがあることを再確認しに旅にでるのだ。

今年は栃木県の那珂川町馬頭広重美術館や会津柳津へ行ってきた。最初に訪れた広重美術館は有名建築家の隈研吾氏が設計したことで知られる、屋根や壁面が地元の八溝杉による格子に包まれたモダンな建築だ。カーサ・ブルータスなどで紹介される一方、男性誌、ファッション誌のロケで頻繁に使用されていることが、館内に置かれていた数多くの掲載誌で判った。
私はミーハーなので、どちらかというと建物を見るために行くことにした。ここでは寄贈された歌川広重の肉筆画および版画の個人コレクションを核に所蔵、展示している。開催中だったのは企画展「浮世絵に描かれた動物たち展 -珍獣・猛獣・いやしのペット-」。
建物目当てだったので、展示にはあまり期待はしてなかったのだが、ペットや動物を通し江戸、明治の気分や雰囲気伝えている優れた企画だった。都市部の美術館で行われる、現代写真家の写真展よりも見ごたえがあった。やはりアートの長い歴史の中で生き残っている浮世絵には、いまだ歴史的評価が未確定の写真家による作品よりも見る側がリアリティーを強く感じるのだろう。
現代アートでは、村上隆のスーパーフラット理論のように、浮世絵が現代の作品とつながっていることを強調する人も多くいる。浮世絵は風俗画とも呼ばれていたそうで、本展ではそれらがスナップ写真やファッション写真的な役割を果たしてことがよくわかる。
浮世絵は、技法では現代美術との関連はあるものの、被写体との関係性では写真とのつながりが強いと思う。
写真が発展したことで衰退していった経緯があるので、両者の関わりはあまり語られなかった気がする。浮世絵は外国人コレクターも認めている日本の伝統的アート。アート写真の世界でも、浮世絵とのつながりを意識したテーマやコンセプトの構築は出来ないものかと考えてしまった。
次回展は9月中旬より、「江戸のMODE -浮世絵美人の総合ファッションガイド-」とのこと。これはファッション写真を研究する私にとって非常に興味のある企画だ。

すこし遠いが気持ちよいドライブコースなので時間があれば再訪したい。今回は自分の知識不足を強く感じたので、次回はもう少し深く勉強してから行きたいと思う。

・那珂川町馬頭広重美術館
http://www.hiroshige.bato.tochigi.jp/batou/hp/index.html

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