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2006年6月22日 (木)

ニック・ワプリントンの写真集を購入

Waplington_coverニック・ワプリントン(Nick Waplington)は1965年英国生まれ。1991年にApertureから刊行された初写真集"Living Room"で一躍有名になった。イギリスの労働者階級2家族の日々の生活を自然体で撮影したものだ。被写体たちがカメラの存在を全く意識していないことが印象的だった。リチャード・アベドンが彼の仕事を評価し、写真集のためにエッセーを書いたことで注目された。現在は、レア・フォトブック扱いで古書市場ではかなり高価になっている。

今回久しぶりにワプリントンの新刊"You Love Life"を購入した。彼にとって8冊目の写真集だそうだ。 タイトルの"You Love Life"は、"You love life as much as we love death"というセンテンスから引用されているとのこと。これは、2003年のスペイン列車爆破事件に際して、アルカイダ側の目的に共感する人がウェブサイト上で行った発言だ。後日、この文章を米国大統領が、"You choose life while we choose death"のように読み替えて解釈されたということだ。
ワプリントンは、似ているようだが、様々な解釈が可能なこの二つの文章が頭から離れなかったそうだ。このことがきっかけで本書の制作を思いついたとのことだ。
約20年間の自分の人生と選択を振り返り、非常にプライベートな写真をセレクションすることで上記二つの文章の意味を自分なりに解釈したのがこの写真集なのだ。
ややコンセプチャルだが、欧米作家は時代のインサイダーであろうという強い姿勢を持っている。しかし、政治的なメッセージと個人のプライベート・ショットとをうまくかみ合わせて表現するのは非常に難しい作業なのだと思う。

ハードカバー、カラー78点が収録、限定1000部で入手した本は作家のサイン入りだった。

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2006年6月 9日 (金)

写真展放浪記 パオロ・ロヴェルシ写真展

パオロ・ロヴェルシ写真展-ModeがとらえたArt-

Blog_010

横浜赤レンガ倉庫1号館で6月25日(日)まで開催されている、イタリアを代表するファッション写真家パオロ・ロヴェルシ写真展を見に行った。
ファッション写真の展示方法は非常に難しい。どのような視点から見て欲しいかがきちんと提示されないと、ただなんとなくきれいなモデルがきれいな服を着た写真の展示に見えてしまう。ファッション系の写真は軽く見られやすいので、見せ方には理論武装が必要になるのだ。とくに専門のキュレーターやギャラリストが関わらないと単なる写真の展示イベントに陥ってしまう場合がある。
残念ながら本展にはややそんな傾向が感じられた。しかし、横浜赤レンガ倉庫という観光スポットでの開催なので致し方ないだろう。あえて日本で知名度がない写真家を取り上げたのは英断と評価できる。その上、100数点の写真作品が展示されていて入場無料、文句など言えないだろう。横浜までの電車賃を払ってでも行く価値は十分にあると思う。ファッション写真に興味ある人は事前に下調べしておけばよいだろう。

展示内容は彼の今までの写真集"NUDI"、"Liberetto"、"Studio"からのセレクションだ。1980年代後半から最近までの作品展示になっている。"NUDI"シリーズはプラチナ・プリントだったと思う。その他、カラー作品はタイプCプリント、ダイトランスファーも一部あったように記憶している。これらは全作品がパリのスタジオで撮影されたので写真展タイトルが"Studio"なのだろう。

彼はコントロール可能なスタジオ空間での創作活動を約25年も行っている。マーティン・ハリソン氏によると、1979年にマリー・クレールの依頼で行ったロケでの撮影に納得がいかず、スタジオで撮り直したことがきっかけだそうだ。1980年から彼は8X10のポラロイド・フィルムを利用するようになる。その発色の特性を生かしたテクニックで自らのスタイルを確立させたのだ。スタジオだけでの撮影で新たな発想が途切れることがないのだろうかと思ってしまう。彼の作品には過去の写真家などの影響を感じるものが多い。マン・レイのソラリゼーションのポートレート、アーウィン・ブルメンフェルドのシュールな色彩、60年代を感じるモデル・セレクションなどがよく指摘されている。そこでふと思い出したのが、彼が写真集の熱狂的コレクターだったという事実だ。たぶん彼のスタジオでの創作の触媒役をはたしているのが膨大な写真集なのだろう。

ファッション写真家として成功しているロヴェルシが作家としての評価を確立させるには、これも"Studio"がキーワードになるのではないか。自分が全てコントロールできる完成度の高いスタジオ作品で自己満足に陥ることなく、 どのように社会とコミュニケーションを図ることができるかが課題になるだろう。
次回作がどのような展開になるかが非常に楽しみだ。

・写真展情報
http://www.artphoto-site.com/guide027.html

・作家プロフィィール
http://www.artphoto-site.com/story25.html

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2006年6月 3日 (土)

The Surfing Life 作家からのメッセージ

Blog_009

写真展が始まって数日が経過した。案内状にも使用している、サーフボードを抱えたオールヌードの女の子のインパクトがかなり強いようだ。彼女に引き寄せられて多くの方が来廊された。
"エロかっこいい"とか、彼女がジャンプした瞬間をとらえているので、カルチェ=ブレッソンの"決定的瞬間"を思い浮かべました、などの意見が聞かれた。モントークには本当に美男美女のローカルしかいないですか?といった質問も受けた。もちろん、太った人も、髪の毛が薄い人も、多くの観光客もいるわけで、マイケルはこの町の中のカッコいい地元民を選んで撮影し、自らの理想とするアメリカン・ライフスタイルのファンタジーを提示しているのだ。70年代~80年代のモントークでは当たり前だったシーンが、都会からの観光客増加で急激に消えつつあるのだ。しかし、まだそのシーンの断片は町のところどころに残っていた。過去を知っているマイケルは、そんな断片を捜し求めて写真集にまとめあげたのだ。日本の写真家の人にも参考になる作品制作のアプローチ方法だ。

マイケルのメッセージを読むと、このあたりの状況が良くわかる。
以下はギャラリー会場内で掲示しているが、内容がやや散文的でじっくり読んでもらうのがたいへんかもしれないので、こちらで紹介しておきたい。実際、英文を意訳するのにかなりの時間がかかった。(英文は写真集に収録されている)内容をじっくり読んでいただくと写真展への興味も増してくると思う。

ザ・サーフィング・ライフ

1975年の夏。ローリングストーンズがモントークのアンディ・ウォーホルの別荘でアルバムを録音していたという噂を聞いたとき、私は17歳で家族とともにロング・アイランドに住んでいました。ロックンロールの歴史が切り開かれると確信した私と友人のオスカーは、彼の'71年製のプリマス・バリアントと機材を目一杯積んでモントークに向かいました。私たちは、友人の誰かの両親が所有している家の鍵と、不相応な才能と偉大さへの自信を持って出かけたのです。
私たちは朝2時頃に家を見つけて、すぐにドアと窓を開け放して可能な限りの大音響で演奏を開始しました。言うまでもなく?隣人たちは気付きましたが、ミック、キース、チャーリーとロンは私たちに気付くことはありませんでした。
次の2日間、この小さなフィッシング・コミュニティの端から端までを車で動き回りました。ストーンズと即興演奏することはもちろん、会うことでさえできませんでした。(「あなたが昨晩ここにいなければなりませんでした。そして、彼らがそこのステージで2時間もプレイしました」)しかし、一方で私たちは郊外の一般人からはるかに取り残されたようなモントークという場所を発見しました。ビーチは自然のままで、本当のサーフィンが行われていました。そして女の子たちは、ロング・アイランドにいるとは思えないほど自然でキュートでした。

その後、私は何度もモントークを訪れるようになります。しかし常に、私は部外者でした。それは、地元住民が不親切だった(そういうケースもあったけれども)ということではありませんでした。彼らは楽しみを自分たちの成り行き任せにして、それらを部外者と共有するのに熱心ではありません。モントークは、かつてもいまも都会化して次のハンプトンになることと戦っている小さな漁村なのです。マンハッタンから約100マイル、いまでも誰もドアに鍵をかけませんし、タコスの売店でつけがききます。誰でも、そんな状況は続かないことを知っています。しかし彼らは、それが彼らの腕時計(時間)では消えないと固く決心しています。

私がこのプロジェクトを思い立ったきっかけは、何かが消え去る前にそれらを記録しておきたいという願望からでした。最初は2週期間単位のモントークの営みを年代順に記録しようとしたものでした。しかし、私が自ら課したルール(ルールは最もモントークらしくない)によって束縛されたくないと理解するために2週かかりました。その2週間は夏になり、私は最も興味があった主題であったサーファーに集中しました。だいたい、私がそうだったように、サーフィンは子供がその場所を好きになるきっかけです。彼らは美しく、セクシーで、サーフィン・コミュニティの一部でなかった誰もわからないほど強い絆で結ばれています。

私は古きよきモントークを知っています。浜辺はそんなに込み合うことはなく、夏の群衆で道端のモーテルが一杯になることもありませんでした。私がいまモントークへ行くとき、それはしばしば家内と2人の子供たちと一緒です。家内と娘はすでにサーフィンに夢中で、息子もすぐにブギーボードから卒業するでしょう。彼らがロックバンドに憧れたり、駐車場でウエット・スーツを脱いでいる誰かと恋に落ちる年齢になるときに、この地はどのようになっているのでしょうか? 私は、一人の部外者も、ここで大きい家やホテルを建設しよう考えて欲しくありません。私の知らない誰かがモントークに来てこの地を変えて欲しくないのです。

私は撮影させてくれた男女とこの町を賞賛しています。しかし、私の写真が若干であっても、彼らの素晴らしいライフスタイルの終りを早めるならば、私は自身の首を絞めていることになります。ローカルたちが私に挨拶してくれるのに28年かかりました。私が彼らの生活を脅かしていると思われれば、再び街灯の下に駐車しなければならないでしょう。そして、モントークには極端に街灯が少ないのです。
しかしこれが人生というものかもしれません?核シェルターにたどり着いた人は誰でも、彼の後でドアにかんぬきを掛けようとします。それはShagwong Tavernの売店で見た「モントークへようこそ。写真を撮ってさっさと出て行け」という落書きのようなものです。

私の写真をどうかご覧ください。そして、どうかこの町から、ほんの少しだけ長く離れていてください。

マイケル・デウィック

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