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2009年7月28日 (火)

皆既日食で宇宙感覚に触れる
アートでも可能な類似体験

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先週は皆既日食の話題で盛り上がった。硫黄島、インドなどで見られたダイヤモンドリングのニュース映像は素晴らしかった。
どこかのテレビ番組でも紹介していたが、私は立花隆の「宇宙からの帰還」(昭和58年、中央公論社刊)にあった記述を思い出した。正確ではないが以下のような内容だったと記憶している。
宇宙という漆黒の闇の無の空間で、生命が存在する青い地球を見ると人生観が変わる。宇宙に行った人は神を信じるようになる場合が多い。自分の想像を超えた何かの存在に概念的ではなく直感的に気付く。・・・・・・ これらは、厳しい修行を経ることなく悟りを得るような意味なのだろうと思っていた。

今回の報道で日食ハンターと呼ばれる人たちがいて、世界中の日食を追い続けていることを初めて知った。現代人は盛り上がるネタとして、大きなイベントを消費するといわれている。ワールドカップやオリンピックなどだ。開催地に行って観戦する人もいる。
多くの人の皆既日食への興味の入り口もそんなのりだったのかもしれない。しかし決定的に違うのは、たぶん日食を一度見た人は宇宙飛行士と似たような体験をしたということだろう。立花隆の本では「コズミック・センス(宇宙感覚)」というような表現を使っていたが、 一度その感覚を味わうと忘れられないのだろうと想像できる。

効率を求める現代社会では宇宙の中の自分を意識する瞬間などほとんどない。いま地球上ではどんな辺境の風景でもほとんどがツーリズムの中に組み込まれている。日食体験は宇宙に行った人にしか感じ得ない感覚の断片を垣間見せてくれるのだろう。 テレビの画面では日食は情報として伝わるが、リアルな宇宙感覚は現地でないと経験できない。一般人が宇宙に行くことはまだ不可能に近い、しかし類似体験を求めて日食ハンターにはなれるということだ。

実は普通に生活を送っていてもアートで似たような体験は可能だ。それがアートが世の中に存在する理由のひとつだと考えている。もちろん違いはある、宇宙体験が凄いのはそこにいるだけで直感的に自分が大きな自然の営みの一部だと判ってしまうこと。それは瞑想体験や座禅に近い。つまり自分の心の中の悩みやわだかまりが瞬間的に消えてしまう。
しかし、いくら優れたアート表現を鑑賞しても同じ感覚は経験できない。アートは一種の情報の組み換え処理のようなものと考えている。少し難しく書くと、ミーム・エンジニアリング。
ミームは文化を人から人へと伝達される情報としたときの情報の最小単位のこと。アーティストの視点や表現を経験することで、自分の思い込みに気付くきっかけを与えてくれるのだ。これは心理学の認知療法に似ていて、世の中の捉え方がアート体験によって変わり、感じ方が変化するということなのだ。
たとえば、前回個展を行った高橋和海の「ムーン・スケープ」シリーズ。彼は、月と海の写真を組で見せている。しかし、これを見ただけでは日食を見たのと同じような宇宙感覚を決して体験できない。作家自身は夜間の長時間撮影で何かを感じたかもしれないが、フレームの中のアート作品を見るだけの観客には伝わらない。
しかし、彼が月と海の写真を組で提示するのは、潮の満ち引きと月の引力との関係を見る側に気付かせるためと知ると違った感覚が訪れるのだ。これは学校でも学ぶ当たり前の宇宙の法則だが、大人になるとそんなことはすっかり忘れている。それがアーティストにより示されることで、自分自身を客観的に見るきっかけを与えてくれるのだ。子供のときは常に意識していた宇宙の中の小さな自分を思い出す、いまの自分の悩みが自然のスケールでは些細なことがわかり癒される。そうすると1枚の写真が入り口となって自分の感覚はもっと広い世界へと拡大していくのだ。写真は1枚の紙だが見る人にとって意味を持ったアート作品となる。

今回は皆既日食があったので高橋和海の風景作品を取り上げたが、新たな視点を私たちに提示してくれる写真は、ドキュメンタリー、ファッション、スティルライフなどを含む様々な分野で存在する。要は現代社会では人間はどうしても狭い世界にとらわれがちになり、それが生き難さにつながっている。そんな自分を客観視できることは宇宙感覚に触れるのと同じような意味合いを持つ。少しばかり生きやすくなるのだ。
一瞬の宇宙体験をしても、結局人間は厳しい社会の中に戻って生きていくしかない。そこで自分らしく生きる為には優れたアートは重要な役割を果たしてくれる。

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2009年7月21日 (火)

マンハッタンのダナ・キャランで作品展示中!
丸山晋一「空書(KUSHO)」

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*All Photographs by Shinichi Maruyama

現在、ギャラリーで写真展開催中の丸山晋一「空書(KUSHO)」。海の向こうニューヨーク・マディソン・アヴェニューにあるダナ・キャランの旗艦店でも8月8日まで、同シリーズが展示されている。(Donna Karan New York, 819 Madison Avenue)
きっかけは、今年の1月から3月までブルース・シルベスタイン・ギャラリーで開催された写真展をダナ・キャランのヴィジュアル・ディレクターが見て気に入ったからとのこと。ダナ・キャランは、メンズウェア、レディースウェア、香水が主なラインナップの日本でも知られたブランド。ファッション写真好きの人は、彼らがピーター・リンドバークやハーブ・リッツを起用して行ったファッション・キャンペーンを覚えているだろう。シンプルで洗練された服で知られているが、シンプルやミニマムはその背景には禅思想の影響があるといわれている。今回の展示の背景には、彼らのデザイン・コンセプトと相通じる精神性を丸山の作品に感じたからだと思う。
アメリカ人のダナ・キャラン(1948-)本人のキャリアを見てみると、波乱万丈の人生を歩んできた人のようだ。デザイナーとしては成功するが、香水事業の失敗などで経営者としては辛酸をなめている。今では、ブランドをLVMHに売却し、デザインに専念している。何か、ポジティブ・シンキングを追求する典型的なアメリカ人のビジネスエリート像と見事に重なる。彼らは精神的な安定を求めることにも積極的だ。彼女も一時期、やや怪しい印象をもたれやすいニューエージ思想にはまっていたことがあるらしい。それも厳しい競争社会で精神的に強くありたいという思いの現れで、何かの考えに頼りたかったのだと思う。本人が作品展を直接見たかどうかは聞いていないが、そんな背景を持つ人が空書をみて直感的に心動かされたことは容易に想像できる。

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*All Photographs by Shinichi Maruyama

なんで丸山のニューヨークでの成功が凄いかというと、商業分野で活躍する写真家がその経験を生かしてアート界でも認められたことなのだ。日本と違い、米国ではアーティストと商業写真家は完全に違う世界の住人なのだ。大雑把に言うと商業写真家はお金儲けの為に写真を撮影する人であまり尊敬されない。
アーティストは自分の表現追求の為に人生をかけている人で、貧乏だが尊敬されるのだ。彼らは奨学金を受けたり、学校の先生を続けながら作品制作を続けている。欧米社会の奥の深さは、真に能力がある人の作家活動をサポートする仕組みがあることだ。作品販売だけで生活できるような人は市場で生き残った一部の成功者なのだ。
じつは、世界的に最も成功している現代アート作家の杉本博司も商業写真との関わりがある。過去にも触れたが彼は米国LAのアート・センター・カレッジ・オブ・デザイン出身。 これは商業写真分野でキャリア形成する人がそのための技術を徹底的に学ぶ場所なのだ。ここで写真を学んだナオキによると、ここからアーティストを目指す人はほとんどいないのだそうだ。なんで商業写真の背景を持つ丸山らが成功したかというと、日本人写真家はアートと広告を特に分け隔てして考えてないからだと思う。アメリカ人写真家は最初からアートを諦めているのだ。もし写真家が世に伝えたい明確なメッセージを持っているのなら商業写真で培った技術、経験はそれを伝えるために非常に有効的な長所になる。
丸山晋一の作品も杉本博司と同様に圧倒的な技術力、高品質が魅力のひとつになっている。海外事情に詳しい日本人写真家がアートに取り組むとなると自分の商業写真のキャリアを消そうとする場合が多い。そして明確には評価しにくい感覚重視のものや、モノクロ写真のプリントクオリティーを追求した作品になりがちだ。今回の丸山の例は、メッセージが明確なら自分の経験の延長上で作品を制作してもよいことを証明している。彼は水の撮影が専門でそれを生かして「空書」をまとめ上げた。この方が慣れないことをにわかに始めるよりも効率的ではないか。作品作りのヒントはまったく違うところではなく自分のすぐ近くにあるのだ。以上から、将来的にアーティストを目指したい商業写真家はぜひ本展を見て、色々と感じて欲しいのだ。写真展は8月8日(土)まで開催中です。

詳しくは以下かkらどうぞ。
http://blitz-gallery.com/index.html

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2009年7月14日 (火)

残念!エスクァイア、スタジオ・ボイスの廃刊
いま求められる情報の品質とは?

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スタジオ・ボイス 1990年4月号

今年になって、エスクァイア日本版、スタジオ・ボイスという写真をよく特集した雑誌廃刊のニュースが伝わってきた。ここ数年、上記2誌による写真特集は、一時期に比べると内容レベルが下がったという意見が多かった気がする。私は特にコレクターの人たちからそのような感想を良く聞いたのを覚えている。つまり以前のように読者を唸らすような高いレベルの特集が少なくなったということだ。
新しい書き手が生まれなかったことも影響していると思う。写真関連の特集だと編集者、ライター、写真家はだいたい同じような人が起用されていた。特にここ数年は編集者による特集の方向性がよく見えない内容も散見された。もともとはサブカルチャー的な話題に編集者が興味を持ち特集を組んでいた。 写真もそんなマイナーなトピックのひとつだった。みんなが知らない面白いことを編集者が熱心に伝えていた。
しかし、営業から編集長が来るようになり、広告を意識した特集記事が多くなっていった。それに伴ってページ数は増えたが、編集部の特集内容や情報へのこだわりが希薄化していったような気がする。いつしか、広告主とのタイアップや関係者とのコネががないアート情報は掲載されなくなった。ここにも新自由主義経済の影を感じてしまう。

しかし、内容が物足りないと考える人が増えたのは、決して雑誌の情報提供力の低下だけではないと思う。読者の写真の理解力がレベルアップし、知識量が増加したことの影響も大きいのではないだろうか。もはや知らないことが少なくなってしまったのだ。90年代はじめにはネットなどなかったので、写真好きの人はとにかく写真家や写真集の情報に飢えていた。
エスクァイアは海外で活躍する写真家のポートフォリオをよく米国版から転載していたし、オリジナル・プリントの啓蒙活動にも熱心だった。90年代の初めには、私たちは雑誌ページ内でオリジナル・プリントの販売を行ったこともある。当時はUPUという会社が発行元だった。
またスタジオ・ボイスはアート系写真集の広範な情報を継続して提供してくれた。90年4月号の、「写真集の現在」はほんとうに画期的な企画だった。それまで、市場にどのような写真集が刊行され、流通しているかの情報がまったくなかったのだ。当時の編集者は本当に熱心に情報収集をしていて、通常の号でも数ページに渡って写真家の新作特集を組んだりしていた。その後に定番化する写真集特集をきっかけに写真集コレクションを始めた人は多いのではないか。私もその一人だ。
いまアート写真集コレクションが日本でこれだけ定着したのは、間違いなくスタジオ・ボイス誌の功績だと思う。その後、1996年には「ヒロミックスが好き」という特集などで、ガーリー・フォト・ブームのきっかけを作ったりもしている。

これら2誌はいままでに様々なサブ・カルチャー情報提供の役割を果たしてきた。皮肉なことに、雑誌が読者を育てたことが逆にいま自分たちの首を絞めることになってしまったのだ。いまや客観的情報はネット経由で世界中からほぼコストフリーで入手可能になった。アート写真に関していま読者が求めるのは、写真作品を読み解くためのコンセプトや視点などについての情報へと質が変化してきたのだ。

90年4月号の、「写真集の現在」の巻頭で、高橋周平氏が、「写真から何かを読み解くトレーニングが必要」だと述べていた。最初はみんなただ多くのビジュアルをみれば写真が判るようになると誤解していた。約20年を経て、写真から読み取る何かとは、写真家の伝えようとするメッセージを時代の中で理解することだったと気付いたのだ。2誌の廃刊はまさにひとつの時代の終わりを象徴しているのだと思う。

今後、一般的な情報提供はネットに移り変わるだろうが、いまだアート写真を読み解くためのものがどのように誰によって提供されるかは見えてこない。読者のニーズの変化に情報発信側の意識がまだついてきていない気もする。写真の表層についての個人的な意見や感想は求められていないのだ。今の日本は写真が欧米並みにアートと認識されるようになる過渡期を迎えている。たぶんギャラリーの情報発信も重要な役割を果たすのだと思う。私たちも色々と試行錯誤していきたい。

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2009年7月 7日 (火)

ギャラリストの買い物リスト
iPodとデジタル・フォト・フレーム

ここ数年は物欲を刺激するようなモノとはなかなかであってない。ショップを回ったり、雑誌を買ったりと新しい何かを積極的に求めることも少なくなった。これも年をとったせいだろうか? 買うものといえば、仕事の写真集、新書、CDくらいだ。

ところが最近になりそんな私が久しぶりにこれは欲しいと思うモノに出会った。ひとつはあまりにも有名なアップルの携帯音楽プレーヤーのiPod touch。液晶画面に様々な機能がついているのだが、私は主に写真を人に見せるために利用している。
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ギャラリー以外で人と会うときもどうしても写真の話題になることが多い。有名作家の場合は、作品イメージを多くの人が共有しているからコミュニケーションは可能。しかし、新人作家の作品を語るときは言語でイメージの感じを伝えるのは難しい。たとえば、現在開催中の丸山晋一の「空書」。墨と水を天空にまき散らかしてそれを高速度カメラで撮影した写真と説明しても、だれもどんな作品かイメージするのは難しいと思う。
正式なプレゼンのときは、PCや写真集をもっていくのだが、レセプションやカジュアルな会合のときはiPod touchを持っていって、こんな感じですと画像をスライドショー見せるととても便利なのだ。
私はiPodの音楽をイヤーホーンで聞くことはほとんどない。主にCDプレーヤー代わりに使っている。非圧縮の楽曲をiPodにいれ、アンプを通してスピーカーで再生すると音が非常によいのだ。誰かが、普通のCDとスーパーオーディオCDの中間くらいの音質と評していたが、まさにそんな感じ。私が想像するに、CDのように回転していないのでトラッキングエラーが少ない、充電式なので電源からのノイズがないことなどが良い音の理由と思う。
多少音量を上げてもハウリングのような不快な現象はまったく起こらないし、音がみずみずしい。私は決してオーディオマニアでなく、うるさいロック系の音楽を良い音で聴きたい派。 いままで数多くのセッティングを試みたがiPodでの出力が一番効果があった。最初は、iPod touchに音楽も入れていたが、非圧縮なので容量をとる。最近ついに120GBのiPod classicを音楽専用に購入した。

もうひとつのモノは、フランスのパロット社製のデジタル・フォト・フレーム。
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国産品のフォトフレームが売れていてプレゼント需要もある、などというトレンド情報は盛んに聞いていた。親と離れて暮らす若夫婦が、孫の映像とともに親にプレゼントする。結婚式の映像とともに、参列した友人たちがカップルに贈る、というような商品の提案だ。
家電量販店などでも実際の商品を見たこともある。しかし、フォトフレームがある生活はまったく想像できなかった。画像を写しているときはともかく、不使用のときのインテリアでのモノとしての強い存在感が気にかかるのだ。
何でプロダクト・デザイナーはデザインを過度に強調するのだろうかと思う。これは写真集のデザインとも共通する。写真の扱いを知らないと写真を殺したブックデザインになりがちだ。特に安いペーパー判の本はデザインが中心で、写真はその素材の扱いだ。優れた写真集は写真の見せ方がうまい。デザインされていることをまったく意識させない。

デジタル・フォト・フレームも家電の一種になるだろう。日本の一般的インテリアでの問題点は置かれているモノに統一感がないこと。購入時期が違う電化製品や家具など、それぞれのデザインポリシーがばらばらなことが原因なのだ。そこに新たなデジタル・フォト・フレームという商品が加わるような感じになる。超モダンでメタル製家具をセレクションしたようなハイテク調インテリアに普通の人は住んでいないのだ。
私が気に入ったフランス・パロット社製のフォト・フレームはデザインされていることをまったく感じない。担当したデザイナーはマルタン・ゼケリ氏とのこと。前面全てがミラー仕立てなのが見事。普段は一見、シンプルでモダンな鏡にしか見えない。当然周りの景色が表面に写りこむので、透明人間のように存在をまったく主張しない。 スライドショーの時だけは鏡の中央部分に画像が浮かび上がるという優れものだ。この商品との出会いはまったく偶然。写真家のプロデュースを手がけるM氏がサンプルを見せてくれた。あまりにも私が絶賛するので、ではギャラリーでしばらく使ってみてくださいと貸し出してくれたのだ。現在、ギャラリーのカウンターの上で、写真展開催中の丸山晋一作品「空書」の全作品をスライドショーを見せている。サンプルの写真集の前にあるので多くの人が興味津々の様子で見入っている。はたして作品を見ているのか、フォト・フレームを見ているのか?
値段はなんと57,000円(税別)という。国産品と比べるとかなりの高額だ。しかし、ギャラリーには、何十万円もするアート作品が数多く展示されている。その中では特に違和感がない気もする。オーディオでも、スコットランドのリンやデンマークのバング&オルフセンなどは、高機能、高デザインをセールスポイントにしている。日本製品と比べて非常に高価だが、裕福でこだわりの顧客の心をつかんでいる。このデジタル・フォト・フレームもそのような高感度の顧客層を想定しているプレミアム・デザイン家電なのだろう。

価値観が多様化した高度消費社会では売れる新商品開発は困難を極めると思う。しかし、アップル社のiPodや、パロット社製のデジタル・フォト・フレームなど、ユーザーが何か新しいライフスタイルをイメージできるような製品には需要があるのだろう。

・パロット社のHPは以下から

http://www.parrot.com/jp/

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