« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月21日 (金)

8月30日(日)は仙台に行きます!
アート写真のセミナー開催

Blog
仙台のカロス・ギャラリーでは高橋和海写真展開催中

今月末は仙台のカロス・ギャラリーに出張する。東京で行っている、ファイン・アート・フォトグラファー講座を現地で開催するためだ。
日本には写真を趣味とする人が数多くいる。その人たちを対象に様々なワークショップ、セミナーが日本各地で日々開催されている。しかし、多くは写真撮影のテクニックをプロから教わる技術面のものだ。最近は、ポートフォリオ・レビューとよばれるイベントも開催されるようになってきた。これは、アルルの写真フェスティバルあたりから始まった試みで、写真家やキュレーターが写真作品の意見や感想を撮影者に述べるものだ。ここで重要なのは、文字通り写真をポートフォリオとして見るということ。だいたい20~25枚くらいが基準になっている。それらの写真でどのようなメッセージを見る側に伝えたいかが重要になる。作品評価の根底にはアートとして通用するかという視点がある。しかし、日本はまだアート写真の歴史が浅いので、ポートフォリオの評価軸があいまいなことが多いのだ。(アルルのフェスティバルはなんと1970年に始まっている。)

今回、仙台で行うセミナーはアート写真の作品を制作するためのもの。特徴はテクニックではなく、作品制作方法やアーティスト・キャリアなど、ソフト面の話が中心ということ。アート写真に興味のある人は多いと思うが、その基本的な考え方を知らなくては効率的な努力はできないだろう。セミナーでは、アート写真がどのような基準で評価されるか、また国内外のアート写真市場がどのように機能しているかなども実例を通して解説する。
最後に参加者の作品を、簡単にレビューして今後のアドバイスも行う。熱心な人が多いと5時間超の長丁場になることもある。アーティストを目指す人向けだが、将来的にギャラリーを開設したい人、コレクションを始めたい人にも向いている。売る側、買う側が違うだけで考え方は同じなのだ。

写真は人生に潤いを与えてくれる素晴らしい趣味だ。しかし、メカや技術の追求だけだと面白さには限界があると思う。アートとしての作品制作は決して簡単ではない。評価されるまでに長い時間がかかるのが当たり前だ。しかし、日本の市場はまだまだほんとうに黎明期。他分野のアートと比べて一般の人でも十分に可能性があると思う。欧米市場から優れた人が出てくるのは、アーティストの厚みがあるからなのだ。私どもは、日本でもアーティスト志望者が増えるようにとの願いからこのセミナーを開催している。アート写真はライフワークとして取り組む価値が十分にあると思う。

ファイン・アート・フォトグラファー講座(8月30日仙台開催)は以下で募集しています。
http://www.kalos-gallery.com/event/workshop.html

| | トラックバック (0)

2009年8月18日 (火)

写真展レビュー
「P.G.I. 10 Days Exhibition」
高橋昇 作品展「Under Current -底流-」

Blog

芝浦のPGIは毎年夏時期に若手中心の写真展「P.G.I. 10 Days Exhibition」を開催している。先週、現在開催中の高橋昇氏の写真展「Under Current -底流-」に行ってきた。実はある有名写真家が本展を絶賛し、見に行くとよいと強くすすめられたのだ。この人が写真展を褒めることはめったにない。どんな写真かを自分の目で確かめてみたいと思った。
会場にはちょうど高橋氏本人もいて色々と話を聞くことができた。なんとまだ若干28歳だという。彼は、古いコンクリートや家屋の壁などを4X5のカメラで撮影している。抽象的な感じの約28作品が1階と2階に展示されていた。まず圧倒的に高いプリント・クオリティーに惹きつけられた。20X24inchの大判のモノクロ写真は、写された物体の細部の質感までも表現している。 すべてストレート写真なのだが、なにか初めてモノクロのデジタル出力作品を見た時、細部までディテールがでているな、と感じたのを思い出した。しかし、デジタル出力のように表現過多ではないのだ。当然、暗室作業を行うので写真家の解釈がプリントに反映される。その写真らしさが、目に自然な感じがする。そういえば、最近はこのサイズの銀塩写真を制作する人は少なくなった。私も長らく現物は見ていなかった気がする。やはり、銀塩はいいなあ、というような月並みの印象を持ってしまった。
このサイズだと表面の平滑性が気になるところだ。抽象的な作品にとってプリントのクオリティーは重要な要素。しかし、展示されているプリント自体にまったく違和感は感じなかった。本人によると、ほぼ2ヶ月間多くの徹夜作業を行って仕上げたとのことだ。この労力の成果は見に行くだけの価値は十分にある。

高橋氏の抽象イメージは、アメリカ人作家のアーロン・シスキンド(1903-1991)を思い起こさせる。彼は抽象表現主義の画家たちに見出された写真家で、平面のなかに含まれたグラフィカルなメッセージの表現を作品テーマにしている。私は個人的にシスキンドの、特に抽象作品は大好きだ。しかし現在のアート写真市場ではその知名度の割りに過小評価されている。いまはさすがに物色され始めているが、つい数年前まではヴィンテージ・プリントでさえ思いのほか安かったのだ。現在のアート写真はアイデアが主流の現代アートの影響を強く受けている。彼の作品は、時代と関わる作家のコンセプトが必ずしも明確ではないのだ。これは、若い高橋氏が今後に意識するべき、作品の課題でもあると思う。

P.G.I.は、日本の銀塩写真のマスターたちの写真を扱っている老舗アート写真ギャラリー。しかし、ブランドが確立した美術館クラスの写真家たちの市場を守るだけでなく、彼らの流れを踏襲した将来性のある若手の育成にも怠りがないようだ。アート写真の仕事を継続するのは非常に困難な時代だ。高橋氏が、ギャラリーのサポートを受けながら今後も作家活動を続けて欲しいと心から願いたい。

「P.G.I. 10 Days Exhibition」高橋昇 写真展「Under Current -底流-」は8月22日まで開催中。
http://www.pgi.ac/

| | トラックバック (0)

2009年8月11日 (火)

変わる情報提供メディア
存在感が増すネットのパワー

Blog

KUSHO#2 2007 (C)Shinichi Maruyama 禁無断転載

丸山晋一の写真展「空書(KUSHO)」が無事に終了した。来廊してくれた皆様、ほんとうにありがとうございました。
本展は、観客動員に若干の不安を抱えてのスタートだった。丸山の日本での知名度が低く、またニューヨーク在住だが諸事情があって帰国できなかったからだ。また、彼の作品制作アプローチは、マスメディアでは現代アートと理解されたようで、写真関係メディアや新聞ではあまり大きく紹介されなかった。彼の作品は、高い技術を持つ写真家でないと絶対に思いつかないアイデアだが、完成作品自体が現代アート風に見えたのだろう。それゆえ写真展情報はネットと案内状の配布が中心になった。

本展は梅雨時期に始まり、猛暑と続き、アートを鑑賞するには決して良い気候ではなかった。しかし、最初は外人客が多数来てくれて、その後もずっと来廊者が増え続けた。結局、当初の心配をよそに前回の高橋和海写真展とほぼ同じ動員数だった。最終日などはお盆シーズン入りしたのに終日かなりの賑わいだった。
来廊者にヒヤリングをしてみると、ネットや口コミの影響がかなりあったようだ。ネットや案内状で「KUSHO#1」の丸のイメージを見て興味を持って来ました、という人がかなりいた。
美術大学の先生が、ありがたくも生徒さんに写真展を推薦してくれたこともあったらしい。
今回、私はアートに興味がある広告写真家に見て欲しいと盛んにアピールしてきた。そのメッセージも多少届いたのか、何人かの広告写真家と話すこともできた。彼らのうちの何人かは、きっと丸山に刺激を受けて作品に取り組むだろう。

最近は、マスコミで写真展が大きく取り上げられても来廊者数とあまり関係ないことがわかってきた。雑誌で仕事を行う写真家だと、関係する雑誌で写真展情報を紹介してくれる場合が多い。しかし、週刊誌や専門誌で紹介されてもそれだけでは来廊者の増加につながることはあまりない。以前に紹介したドン・トンプソン著「The $12 million Stuffed Shark」にも、似たようなエピソードが紹介されていた。ロンドンの高級紙サンデー・タイムズ・マガジンの文化欄で4ページにも渡って紹介されたセシリー・ブラウン(Cecily Brown)展でさえ、ギャラリー関係者は約6週間の会期に記事により来廊したのは約100人、1日にわずか3人強程度と認識しているそうだ。

日本のアート写真でも、マスコミの反応だけでなく写真展の内容がより重要になってきたようだ。情報が伝達される方法がマスメディアだけでなく、ネット経由の比重が増加していることも影響しているだろう。いまや、写真展情報はネット経由で得る人がかなりの数に上っているのだ。興味のある人には、スペースに限りがある紙メディアよりも、ネットを通しての方がはるかに多くの情報が得られる。コストフリーだし、複数イメージが見れる、長い解説も読むことができるのだ。私どものギャラリーは隠れ家的な存在で、目的を持った人が来てくれる場所。ギャラリーが発信するネット中心の情報だけでも、イメージと作家のメッセージが優れていれば、興味を持ってギャラリーまで足を運んでくれる人が増えているのだ。実際、丸山の作品はニューヨークや世界各地のアートフェアーで絶賛されている。海外で認められたような優れたコンテンツを読み解く人が日本にもちゃんと存在するのだ。

本展にはシリアスなコレクターも数多く来てくれた。一番人気のKUSHO#1はすでに海外で完売しているのだが、この作品に対する関心が非常に高かった。もしかしたら、まだ若いエディションが残っていたら数枚は売れていたのではないかと思う。コレクターたちは残念がって、「小さい」といいながら、エディション25点の8X10"サイズを購入してくれた。日本人作家の作品を初めて買ったという人もいてとてもうれしかった。
最初から50万円を超える大きな作品は日本では売れないと考えていた。予想は的中して、売り上げは8X10"サイズ作品と写真集が中心だった。大判作品と比べて割安感があるので、当初に仕入れた分はほぼ完売となった。

写真展「空書(KUSHO)」は当初は、名古屋のギャラリー・オーチャードに巡回予定だった。しかし、同ギャラリーは諸事情があり7月で業態を変え、プライベートなヴューイング・ルームになった。名古屋でのアート写真の展示スペースがなくなり非常に残念だ。いままで地方での市場拡大に期待していた。そのためには地道なアート写真の啓蒙活動が必要だと考えていた。これだけネットは普及して情報に地域格差はないはずなのに東京以外の都市ではそれらが的確に伝わらない。つまりアート写真の理解力には地域格差があるのだ。しかしその活動継続には、長期的な視点がある、写真に情熱を持った人物が現地に必要になる。この厳しい経済状況下では非常に困難といわざる得ない。今後しばらくアートは東京中心になっていくのだろうか?

| | トラックバック (0)

2009年8月 4日 (火)

多様化する日本のモラル感覚
社会の混乱をアートが救えるか?

最近、不快に感じたことがいくつかあった。まず廃品回収業者の車の騒音。普段はあまり気にしないのだが、このごろ異常に大きなヴォリュームでアナウンスをしながら、それもゆっくりとしたスピードで回る業者がいるのだ。私は静かな午前中に原稿を書くようにしているが、これが来ると集中できなくなり本当に困ってしまう。さらに最近は北海道産の牛乳移動販売者も来るようになった。彼らのヴォリュームはそんなに大きくはないが、一箇所に駐車してBGMをバックに営業トークを続けるのだ。
これらは騒音公害ではないか。現在は住宅地で仕事をする自営業者もいるし、病気で寝込んでいる人などはかなり苦痛だろう。

交通ルールを無視した自転車も不快に感じる。現在はエコブームや健康ブームで、目黒区のあたりも自転車が急増している。特に車で移動中にその横暴さに驚かせられることが頻繁にある。いままでは交通ルールなどお構いなしでマイペースで走る人を迷惑に感じることはあった。だが最近の若い人の暴走は目に余る。幹線道路を猛スピードで逆走したり、信号無視、安全確認しないなどは当たり前だ。たぶん都内では自転車事故が急増しているのではないか。

最後はギャラリー周りのゴミや犬の糞の問題。前にも触れたが、ギャラリーは犬の散歩に最適の知る人ぞ知る林試の森公園への通り道。出勤してくるとまず犬の糞の始末ということが多々あるのだ。ギャラリーの周りは植え込みがあるのだが、そこへの空き缶やゴミの投棄も頻繁にある。だいたい植え込みの見えない奥のほうへ捨ててある。最近は周りの道の掃除に気をつけている。きれいな道にはゴミや糞を捨てにくいと聞いたからだ。これは一定の効果はあげている気がする。

以上の出来事から、最近この国はエゴイズムが蔓延していると強く感じていた。なんでこんな状況になったのか考えてみた。
ルース・ベネディクトの「菊と刀」以来、文化人類学でいわれているのが西欧の「罪の文化」に対して日本は「恥の文化」。行動する規範がそれぞれ違うということだ。西洋人は人が見ていなくても神の目を気にして行動が自省される。一方、日本は世間の人が見ていなければ罪悪感を感じない。旅の恥はかき捨て、のようなことだ。
ところが、都心部などでは中間共同体が崩壊し、行動の規範となっていた恥の感覚も希薄化した。自分の思うとおりに生きること、自由に生きることがよいという風潮が拍車をかけている。自分中心で、他人や社会への気配りの意識が希薄な人が増えたと自分なりに解釈していた。

こんな状況を的確に説明してくる興味深い本数冊に最近出会った。どうも日本社会の混乱は単純なエゴの蔓延やモラル低下ではないようなのだ。

Blog2
まず紹介するのは、"羞恥心はどこへ消えた?"(菅原健介著、2005年光文社新書)。
この本によると、モラル不在の背景には伝統的な世間の崩壊と他人領域の拡大があるという。いままでは、地域社会が世間として存在していた。しかし、いまや玄関を出たらいきなり見ず知らずの人しかいない他人領域になっている。羞恥心の機能により、人は他者から受け入れてもらえる存在であり、社会の秩序は維持されていた。しかし、中間共同体崩壊という状況変化で社会の広い範囲で羞恥心が働かなくなっているというのだ。
従来は公共場面は世間の一部だったが、いまでは他人領域になってしまい、ここでの行動は他人に迷惑をかけなければ自由だという自分本位の基準が強まったということ。ようするに家を出たらそこは恥を感じない他人の世界になってしまった。著者はそれが、電車での飲食や化粧、地べた座りの原因としている。
犬の糞、空き缶、ゴミの投棄はこのことで説明がつく。一部の犬の散歩の人、通行人にとってギャラリー周りは他人領域なので人が見ていなければ何をしても気にしないということだろう。

それでは、暴走自転車やスピーカーの騒音車はどうだろう。これは他人領域の拡大だけでは説明できない。ここで注目したいのは「人に迷惑をかけなければ自由」の解釈だ。
実際、スピーカーや自転車は私に迷惑をかけている。しかし、どうも当事者は迷惑はかけているという発想がないようだ。その事情をうまく説明しているのが、"世間さまが許さない!"(岡本薫、2009年ちくま新書)だ。
Blog1

著者によると、日本人には他人の行動基準がモラルとなり、他人と同じことで安心する国民性を持っているという。そして多くは世の中の人々はすべて「同じ心」を共有するはずだと信じていると指摘する。かつては同質の「世間さま」を基準にする共通のモラル水準が機能していたことの名残なのだ。しかし、いまや状況は大きく変わった。戦後の自由と民主主義とその結果に起きた個性化、多様化の進展により、社会の同質性が崩れて恥やモラルの概念もバラバラになった。しかし、いまでも多くの人が自分の個人的なモラル感覚を他人も当然共有していると思っている。これこそが現在の社会混乱の原因としているという。著者は現在の日本の社会状況を、自由と民主主義も、そして従来の世間様的なモラル感覚も機能しなくなっていると手厳しく分析する。
つまり、移動販売車や廃品回収車の騒音はモラル違反だと私は自分の感覚で判断するが、たぶん業者は自由な経済活動を客の為に行っていると考えているのだろう。大きい音は客の利便性のためだと考えているかもしれない。また、自転車であっても公道を走るからには交通ルールは守って欲しいと私は思うが、自転車で暴走する人は、自転車にはエンジンがないので交通ルールよりも自分の都合を自由に追求してよいと考えるのかもしれない。

上記の2冊は日本の文化歴史的な背景を調査の上で現在の社会状況を興味深く分析していると思う。日本人は会話で相手の言うことを聞かないといわれる理由が良くわかった。相手も同質なことが前提なので聞く必要がないのだ。アート写真に関連付けると、日本ではやたら感覚重視の表現が多く、テーマ性やコミュニケーションが軽視されがちだ。アーティストがなかなか育たない理由はこの辺の社会、文化的背景も影響しているようだと感じた。
せめて私は世の中には多様な価値観があり自分の考え方はその一部なのだというスタンスでいたいと思う。ルール違反はともかく、相手のモラルや考えが自分とは違うんだと理解し、その状況発生の背景が把握できれば、騒音やモラル低下への不快感は消えないがらも多少は和らいで感じるようになる。相手に悪意がないと理解することが感情抑制に効果があると思う。
仕事柄、優れたアート作品から視点の多様さを学ぶ機会が多いのは幸運だと思う。

| | トラックバック (0)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »