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2009年9月29日 (火)

日本の地方はどうなるのか?
会津柳津への旅

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圓蔵寺

先日、馬頭の広重美術館に行ったことを書いた。その後は足を少し伸ばして福島県会津柳津の「福満虚空蔵尊 圓蔵寺」へ向かった。ここは約1200年の歴史がある弘法大師にゆかりのある寺。高台にある本堂舞台からの只見川の眺めが絶景で、会津の民芸品「あかべこ」の由来とも言われている開運撫牛という置物があることでも知られている。
以前、高速道路やバイパス沿いにフランチャイズの画一化された大規模商業施設が次々と誕生していることを書いた。日本の地方風景がかつて米国で起きたように急速に均一化しているのだ。前に紹介した写真家ジェフ・ブロウスが写真集「Approaching Nowhere」(Norton、2006年刊)で訴えているような状況が日本でも起きている。
先日、藤原新也の写真集「俗界富士」(新潮社、2000年刊)を見直す機会があった。彼は聖なる山として表現される富士をあえて人々の生活目線から捉えている。そのなかには、店舗が立ち並ぶロードサイド沿いの風景もある。しかし、撮影された90年代はまだ地域色が豊かで、美的ではないとしても個性的。目新しいのはまだコンビニくらいだ。グローバル経済の波が本格的に日本をも巻き込みはじめるのは21世紀以降のことだ。

さて今回は高速道路よりも離れた地方部をたずねたのだが、そこにはまったく違った光景が展開されていた。なんで地方の状況に興味があるかというと、変化を見つける視点はアート作品を制作する上でのヒントになるからだ。私は特に地方経済の専門家ではないので思い込みなどがあるかもしれないが、都会からの旅人として感じたままを書いてみたい。

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会津柳津にて

まず街道沿いには廃業した温泉や宿泊施設などのリゾートブームの陰りを象徴するシーンをあまた見かける。高度経済成長期の負の遺産だ。そして町の中心部にはこれもお約束になった感のある寂れた商店街がある。馬頭も会津柳津もそんなやや寂れた印象だった。
それと対照的にギャップを感じたのは、少し離れた場所に新しく立派な「道の駅」が建てられていることだ。これは道路整備予算や地元市町村が受け取る様々な補助金で作られる公営のドライブイン。「駅の道」の前後の道路沿いには廃業した小規模ドライブインが立ち並ぶ。無料の大規模で新しい休憩施設のほうが利用者には便利だ。民間は太刀打ちできないだろう。そして、二つの町には偶然かもしれないが立派な美術館も建てられていた。

今回は幾つかの「道の駅」に立ち寄った。みやげ物をさがしてみたが、取扱商品にあまり個性がなかった。日持ちするような、乾物、漬物、名産品を使用しアイデア重視で製造された商品群、そして地元で採れた野菜類が定番だ。私の個人的な印象では、「道の駅」は地元振興の考え方中心に運営されている感じだった。施設内のレストランなどのサービスは、利用者のニーズではなく地元従業員の利便性を優先している。本来サービス業は手間のかかる仕事を行いお金を得る職業のはずだ。また民間では考えられない、無駄が多いスペース利用も感じられた。いわゆる、都会ではもはやあまり見かけないお役所仕事になっているのだ。
政権が変わり、予算配分の大幅な見直しが行われるという。政策の目玉である子育て支援や高速道路無料化が行われれば、今までのように特定財源から地方部への予算配分の仕組みも変化するのだろう。日本では官製企業、政府外郭団体、官相手の企業に勤める人は就業人口のなかでかなりの割合を占めると聞く。不況などでも比較的安定していた彼らが今回の政権交代で大きな影響を受けると思われる。今後、予算が減る中で彼らが生き残るには、利用者のニーズや満足を高めることを考えなければいけないだろう。いままでは税金のおかげでぬるま湯的な経営をしていた公共施設が今度は厳しい生き残り競争に直面することになるのだ。

しかしよく考えると、「道の駅」を作るような地方振興は地方も都市部と同じように経済成長を目指せという戦後の発想だろう。もはやそれが不可能であるのは明らかだ。箱物などのハード面ではなく、ソフト面つまりアイデアで相応の地域振興を考える時期に来ているのではないか。
たとえば南会津の前沢曲家集落などは、茅葺の古民家が山間に立ち並ぶだけの場所だがとても魅力的だった。都会からの旅行者は地方に都会的なものを求めないのだ。
また意外だったのが、「道の駅」には年配者のグループが多くいて、「福満虚空蔵尊 圓蔵寺」などには、若いデート中のカップルが目立っていたこと。古い観光地はなにか昭和の残り香があり、若者が良く使う言葉で表すと「いい感じに」寂れていた。私も、古い観光名所には懐かしさを感じた。このへんに何か地方活性化のヒントがあるのではないだろうか。

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2009年9月22日 (火)

トミオ・セイケ トークイベント
「トイレットに写真を」 & 新作制作の背景

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(C)Tomio Seike

先週末に行われた、トミオ・セイケによるトークイベントの内容を要約して紹介します。約1時間に渡って、本人も自宅で実践しているという写真をトイレに飾ること、そして新作誕生の数々のエピソードを語っていただいた。

1.「トイレットに写真を」
80年代半ば、ロンドンのギャラリーとはじめて契約した。そのギャラリーにはトイレが2つあり、1つは来客用+男性スタッフ用、もうひとつは女性スタッフ用だった。
女性スタッフ用のトイレはデスクの奥にあるのだが、あるときトイレの戸を開閉する際に見える壁に自分の作品のポスターが貼ってあるのが偶然見えた。その時は、トイレに自分の作品が・・と不快に思い、何故だろうと気になったが、当時の自分はまだ新人でその理由を聞くわけにもいかず、また女性トイレなので入って確認するわけにもいかず、そのまま時が過ぎた。
イギリスでは一般の家庭でもトイレは2つ以上あり、それらは使用人用と、主人用とにはっきりと使い分けられている。
ある時、とある写真コレクターの家に呼ばれた。ロンドン郊外の大きな家だが、トイレに入って驚いた。壁や水回りの白に木材の黒のコントラストが美しい設えに写真が数点美しく飾られていた。その時は、これがトイレなのか?こういうスペースに写真があるのも悪くないなと驚いた。トイレに絵画などを飾っているのは今までにも見たことがあるが、通常は作品展示にここまで手は掛けられていない。
現代人はとても忙しく、一人になる時間がない。唯一トイレは他人と隔絶している空間だ。そこに写真があるのは理想的ではないかと思うようになってきた。ギャラリーや美術館は他人と空間を共有している。狭いトイレは個人が写真と向き合うのに最適ではないか。
今日は写真を撮られる人がたくさんいらっしゃると思うが、自分で撮った写真をトイレに飾って向き合ってみてはどうか。写真を買うということのきっかけになるかもしれない。ちなみに、私は東京の自宅に自作を展示している。

2.「Eighteen month の背景」
長年の友人マーガレットが家を買うかもしれないというのでその家を一緒に見に行った。そこはある女性が終の住処として買った400年以上たつ古いコッテージ。しかし彼女は病気になり18ヶ月しか住むことができなかったそうだ。その女性の友人経由マーガレットに購入の話が来たとのことだった。亡くなった女性の年齢が自分と同じだったことも気になった。
家に入ると、今まで経験したことのない空気、緊張感、重さを感じた。私は特に霊的なことを信じる人間ではないが、空気が重いという感じがあった。そこは亡くなった前所有者が住んでいたままの状態だった。マーガレットがこの家を購入し、移り住めば今感じたものは全てなくなってしまう気がして、その場で写真を撮らせて欲しいと頼んだ。またこの日以降も撮らせてもらえるように関係者にとりあってもらった。こうして初めてその家を訪ねた2007年10月14日から12月初旬まで計5~6回かけて撮影したのがこの展示している作品だ。
最初の2~3回は、家の中を見て回ると絶えず重い空気のようなものがついて回る感じがあったが、そのうち「後は好きにやってくれ」という許可を受けたような感じに変わった。最初は「お前、誰なんだ」という感じだったのが承諾してもらえたような感じだ。
今回は、ここで感じたものを写真にしたい、という強い思いがあった。それは、彼女(前所有者)はこれで満足していたのだろうか、やり残したことが数多くあったのではないか、という視点で撮影したということだ。普通は自分の住む空間を時間をかけて自分好みに変えていくだろう。早く亡くなったことで彼女がやりたくてもできなかった、という思いを感じたのが作品制作の強い動機だった。
撮影時にはそのまま何もモノを動かすことなく撮っている。そこで自分の感じるものを表現しようとしたのであって、そこにあるモノや場所を撮影したわけではない。

3.主な質疑応答
Q.デジタル、銀塩へのこだわりについて
A.どちらで撮るのが好きかと言えば、銀塩のほうが好きだ。しかし、デジタルは日進月歩で進化している。また、将来フィルムを使うことができなくなることも想定しなければならない。デジタルもやっておく必要がある。様々な最新デジタルカメラを使用してみるのはそのことによる。

Q.カラーは撮らないのか
A.私のカメラにはいつもトライXなどのモノクロが入っている。カラー作品を自分が欲しいと思ったことがない。だから撮らない。今後自分が欲しいと思うカラー作品に出会えば、カラーをはじめる。

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4.トークイベントを聞いて
セイケが古民家の室内ではなく自分の感じたものをそこで撮影したというのは興味深い。 本作には人は写ってないが、インテリアのオブジェ類を通して撮影された前所有者のポートレート写真なのだ。
またこのインテリアにセイケは、「彼女がやりたくてもできなかった、という思いを感じた。」と語っている。この不完全さを見る視点は、日本古来の侘びや幽玄の視点と重なると思う。不完全さは余白であり無でもある。そしてこれは不完全を美として受け入れる姿勢なのだ。
そうなると18か月という時間が非常に重要になってくる。もし住人が何年も住み続けていたら部屋の中のたたずまいは彼女の目指すイメージに近づいていたはずだ。そうなるとセイケの感性が入る込む余地があったかどうかは疑問だと思う。インテリアは未完であったが故にセイケの写真作品により永遠を獲得したのだ。これは日本人写真家にしか真に表現できないと思う。
一部の外人コレクターがセイケの写真を見て日本的ということがある。それは写真に存在する微妙な距離感、もしくは余白なのではないかと考えてきた。マイケル・ケンナは自作を俳句のような写真と呼んでいる。写真の持つ気配が、見る側が何か考えさせらる余地を持つという意味だ。私はなにかそれに人工的な響きを感じていた。日本人以上に日本文化を研究している外国人に抱く不自然さのような感覚だ。一方セイケの多くの写真にはその感覚が自然としみ出ている印象がある。たぶんスタイルではなく精神が重要で、それは歴史の積み重ねを通して受け継がれるものなのだろう。

今回のトークでは彼がそんな感覚を意識していることが明らかになったと思う。デビュー作の「ポートレーツ・オブ・ゾイ」の場合は、モデルになったゾイの成長による変化がテーマだった。彼は被写体の変化を写しだすために距離感を一定にするとともに、今後の成長や変化の余地が意識していたのだろう。
実は私どものギャラリーは、現代日本人がリアリティーを感じる写真の紹介をテーマにしている。それらをまとめるキーワードとして侘びの視点を意識している。私はセイケはそのような範疇の日本人作家の一人と理解しているのだ。詳しくは将来的に何らかの企画展考えているのでその時に説明したいと思う。

日本の写真コレクターはイメージ重視の人が多い。それが作家性を愛でる欧米のコレクターとの大きな違いだ。だから作品テーマが新しくなりモチーフが変わると全く興味を持たなくなることがよくあるのだ。今回は古いコッテージのインテリア内だけで撮影された作家性が重視された作品だ。作品のイメージ自体はやや地味と感じられるかもしれない。しかし、一緒に生活するには心地よいモノクロ・イメージばかりだと思う。またその背景を読み解こうとすると非常に多様で深みのある世界が広がっている。
私は日本人コレクターのアート写真リテラシーは若い人中心にこの10年で大きく向上したと思っている。観客の本作品に対する反応が非常に興味深い。

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2009年9月15日 (火)

トミオ・セイケ新作「Eighteen month」
いよいよ世界初公開!

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(C)Tomio Seike

2009年秋は、トミオ・セイケの「Eighteen month」でスタートする。これは2006年の「Glynde Forge」以来となるファン待望の新作となる。舞台は英国サセックス州にある築400年以上のコテージ。終の住処としてそのコテージを購入したが、病に冒され僅か18ヶ月しかこの地で暮らせなかった女性の思いをカメラで紡いだ作品だ。                  彼の作品はほとんどが欧州で制作される。作品の主要コレクターたちが欧米在住なのだから致し方ないことだろう。従って撮影された場所の情報や歴史文化を知らない人には作品背景が理解しにくい点があると思う。そのため、日本人コレクターはどちらかというと写真技術、作品の持つ雰囲気、プリント・クオリティーを愛でることが多かった。実際にセイケをライカ・マスターとして尊敬している人が日本では多いのではないだろううか。
新作でセイケは、「限りある人生を」という普遍のテーマを明確に出している。撮影された英国南東部サセックス州のことを知らない日本人オーディエンスでもメッセージが明快に判る作品だ。これは、20代の女性の成長と変化を写し撮った80年代の「ポートレート・オブ・ゾイ」以来だと思う。実はこれはいまでも日本で人気の高いシリーズ。今回の新作も「ゾイ」同様に日本人に広く受け入れられるのではないかと期待している。
私の個人的な感想だが、新作は彼の1992年の代表作「Paris」に近いという印象を持っている。彼は欧州の芸術の都パリの歴史をベースに撮影している。その上に積み重なってくるのは、ブラッサイ、ケルテスなどの写真家たちがこの地で活躍した痕跡なのだと思う。それらの歴史の積み重なりを無意識化した上で、彼は意識的に現代のパリに立ち向かい撮影したのだ。伝統的な手法で制作された、写真史の流れとつながっている作品であることが欧米市場で「Paris」の評価が高い理由だろう。
新作では、築400年以上のコテージがベース。そこにわずか18か月しか住めなかった女性の気持ちが積み重なっている。それらに彼の思いを乗せて制作されている。人間の一生には限りがあることなど誰でも知っている。しかし、忙しい生活をしている現代人は人生は永遠と妄信しているかのようだ。釈迦は誰にでも、3つの奢りがあるとしている。それは、若さ、健康、生きていること。そしてこの奢りをなくすことが迷いを断つ方法としている。「Eighteen month」はそんな当たり前のことを思い起こさせてくれるきっかけを作ってくれると思う。

写真展のプレス・リリース(pdf)

○ご案内
なお本展では、セイケ氏が自身のブログで作品の紹介を毎日1点ずつ行うことをご提案いただいた。展示作品は23点になるので、毎日ではないが会期中の23日にわたり更新していただく予定だ。リアルの写真展とウェブとが融合する新しい試みになると思う!
セイケ氏のブログはコチラです。是非ご覧ください。

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2009年9月 8日 (火)

夏休みの旅
那珂川町馬頭広重美術館

Blog

夏休みは出来るだけ行ったことのない地方を旅することにしている。東京でずっと生活していると自分の行動範囲がどんどん狭くなり、自分の頭のなかの世界しか存在しないように感じてくる。次第に、世界は想像可能な都心と郊外しかないように思えてくるのだ。それでも自分は世の中のことはほとんど知っていると信じ込んでいるのだ。都市部と地方との文化の違いや問題点もステレオタイプ的な把握しかできなくなる。アートに関わる人間としてこのような思い込みほど危険なものはない。だから世界は自分の想像をはるかに超えた広がりがあることを再確認しに旅にでるのだ。

今年は栃木県の那珂川町馬頭広重美術館や会津柳津へ行ってきた。最初に訪れた広重美術館は有名建築家の隈研吾氏が設計したことで知られる、屋根や壁面が地元の八溝杉による格子に包まれたモダンな建築だ。カーサ・ブルータスなどで紹介される一方、男性誌、ファッション誌のロケで頻繁に使用されていることが、館内に置かれていた数多くの掲載誌で判った。
私はミーハーなので、どちらかというと建物を見るために行くことにした。ここでは寄贈された歌川広重の肉筆画および版画の個人コレクションを核に所蔵、展示している。開催中だったのは企画展「浮世絵に描かれた動物たち展 -珍獣・猛獣・いやしのペット-」。
建物目当てだったので、展示にはあまり期待はしてなかったのだが、ペットや動物を通し江戸、明治の気分や雰囲気伝えている優れた企画だった。都市部の美術館で行われる、現代写真家の写真展よりも見ごたえがあった。やはりアートの長い歴史の中で生き残っている浮世絵には、いまだ歴史的評価が未確定の写真家による作品よりも見る側がリアリティーを強く感じるのだろう。
現代アートでは、村上隆のスーパーフラット理論のように、浮世絵が現代の作品とつながっていることを強調する人も多くいる。浮世絵は風俗画とも呼ばれていたそうで、本展ではそれらがスナップ写真やファッション写真的な役割を果たしてことがよくわかる。
浮世絵は、技法では現代美術との関連はあるものの、被写体との関係性では写真とのつながりが強いと思う。
写真が発展したことで衰退していった経緯があるので、両者の関わりはあまり語られなかった気がする。浮世絵は外国人コレクターも認めている日本の伝統的アート。アート写真の世界でも、浮世絵とのつながりを意識したテーマやコンセプトの構築は出来ないものかと考えてしまった。
次回展は9月中旬より、「江戸のMODE -浮世絵美人の総合ファッションガイド-」とのこと。これはファッション写真を研究する私にとって非常に興味のある企画だ。

すこし遠いが気持ちよいドライブコースなので時間があれば再訪したい。今回は自分の知識不足を強く感じたので、次回はもう少し深く勉強してから行きたいと思う。

・那珂川町馬頭広重美術館
http://www.hiroshige.bato.tochigi.jp/batou/hp/index.html

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2009年9月 1日 (火)

アート・フォト・サイトに
新オンライン・ギャラリーがオープン!

Blog
ファイン・アート・フォトグラファー講座の受講風景

当初、春にスタートする予定だったアート・フォト・サイトのオンライン・ギャラリーがやっと出来上がった。
http://www.artphoto-site-g.com/

概要は早くから完成していたのだが、マーケット・リサーチを色々と行った結果、システム上変更すべき点がいくつも出てきたのだ。
最初は、単純にポートフォリオを審査して掲載の可否を決めればよいと考えていた。海外のオンライン・ギャラリーはだいたいそのような受付の流れだ。しかし、それは参加希望者の作品が一定以上の完成度であることが前提となる。アート写真がまだ黎明期の日本ではそのような作品が最初から数多く集まるとの予想は少しばかり楽観的すぎると感じた。参加希望者は自作の審査結果よりも、それをアート作品の完成度に高めていく継続的なアドバイスを求めているのでは、と気付いたのだ。そのため入り口を、単なる審査ではなく、ポートフォリオ・レビューの開催に変更した。 そこで、アート写真の各種の条件を満たしているかを判断して、足りない部分へのアドバイスも同時に行うことにしたのだ。

まだ作品が未完成で継続したアドバイスが必要とされた人のうち希望者は、エキゼビション・プログラムに参加してもらう。これは2ヶ月に1度くらいのペースでポートフォリオの再評価を受けるワークショップ。 そこでオンライン・ギャラリーに参加するという目的を持って専門家とともにアート写真の作品制作を継続してもらう。最終的に指摘された問題点がクリアーできた時点で、オンライン・ギャラリーへ参加可能となる。

以前も述べたが、オンライン・ギャラリーはコマーシャル・ギャラリーではないので、 審査はあくまでも基本要件を満たしているかの判断基準で行う。作品評価はすべてオーディエンスやコレクターに委ねるつもりだ。作品が未発表かどうかや、他ギャラリーでの作品発表などへの制限はいっさいないので、自由に活動したい人に最適のスペースだと思う。要約すると、参加自体ではなく、その過程に重点を置くようにしたということ。時間をかけてゆっくりと質の高い作品数を増やしていくつもりだ。

作家志望者が直面する問題は、多くの人に作品見てもらう機会が少なくなっていること。ウェブサイトでのポートフォリオ公開が一般的だが、ネットの世界は均一化が急激に進んでしまった。いくら素晴らしいポートフォリオでも膨大な情報の中に埋没してしまう。また世の中に数多あるオンライン・ギャラリーは、ほとんどが審査なしのスペース貸しだ。レベルが様々なので、ここにも一般の人が見に来ることはあまりない。 今回のオンライン・ギャラリーは、トラフィックの多いアート写真の情報サイトの一部としてスタートする。あえて審査を行い、作品レベルを保つようにするので、多くの人に見てもらう可能性が高くなると思う。

また、作家を目指す人は個展の一つ前のステップとして本オンライン・ギャラリーをとらえて欲しい。いままでは個展開催を目標にキャリア形成を考える場合が多かったと思う。個展が成功すればキャリアが大きく展開する可能性があることは事実だ。しかし、1週間の開催でも、会場費、マット・フレーム費等かなりの予算が必要。また、実際は友人、知人が集まるだけでなかなか作品を広く一般にアピールすることは難しい。オンライン・ギャラリーは多額のお金をかけずに作品を一般客にアピールする有効手段になりうると思う。

当初は、過去にファイン・アート・フォトグラファー講座に参加した人を対象にポートフォリオ・レビューを開催する。場所は、東京、仙台を予定している。現在、日程を調整中なので、決まり次第メルマガなどで案内します。

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