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2010年4月25日 (日)

アンセル・アダムスの名作の価値
ヴィンテージはモダン・プリントの7.5倍

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アート写真の名作のとなると、同じネガから様々な大きさのプリントが、長い期間にわたって数多く制作される。写っているのは全く同じイメージなのだが、プリント年によってその市場価値にはかなりの差がある。いわゆる、撮影されてから短い時期に制作されたヴィンテージ・プリントとその後に制作されたモダン・プリントだ。
昨年12月に興味深い出来事があった。この2種類のプリントがニューヨークのスワン・オークションで入札されたのだ。作品は写真界の巨匠アンセル・アダムスがキャリア絶頂期の39歳の時に撮影した代表作"Moonrise, hernandez, New Mexico,1941"。日本語表記は"月の出,ヘルナンデス,ニュー・メキシコ"。写真好きで知らない人はいないだろう。1948年制作のヴィンテージ・プリントはアダムスの友人だったValentino Sarra氏のコレクションからの出品。最終的に36万ドルで落札された。一方、60年代にプリントされたモダンプリントは48,000ドル。2作品の価格差は約7.5倍だった。
名作"Moonrise"には、過去にも同じような機会が何回かあった。同作の最高値は景気が良かった2006年秋にササビーズNYでつけた609,600ドル。この時も60年代のモダンプリントが同時出品されており、33,600ドルで落札されている。価格差はなんと約18倍だった。通常は状態などにより4~7倍程度。2006年のヴィンテージは彼のアシスタントを勤め、生涯の友人だった写真家パークル・ジョーンズのコレクションからの出品だった。好景気だけでなく、抜群の来歴と、同じようなプリントが10枚程度しか存在しないという希少性から入札は過熱したのだ。

ヴィンテージ・プリントの定義は関係者の間でも意見が完全に一致しているわけではない。だいたい撮影後1年程度の期間内にプリントされた作品がヴィンテージといわれることが多い。古い時代の写真の場合は、撮影後、5年~10年くらいが含まれる例もある。
通常、ヴィンテージプリントの数は本当に限られる。昔は1枚の写真が何十年後に高価になることなど誰も想定していなかった。プリントは面倒な作業なのでだいたい1枚か2枚くらいしか存在しないものなのだ。 ワインとおなじように単純に昔に制作されたものをヴィンテージと誤解する人もいる。 たとえば、1950年代に撮影された写真が1970年代にプリントされたとする。確かにいまから30年以上前にプリントされた作品は古いという意味ではヴィンテージ。しかし正確には撮影から20年後に制作されたモダン・プリントなのだ。上記の1941年撮影の"Moonrise"は、1948年12月にネガの再処理が行われているという。私は専門家でないので技術的なことは詳しくわからないが、本作の場合それ以前のプリントはヴィンテージ扱いされることが多い。もし本当に撮影直後制作のプリントがいま市場に出ると世界中の美術館やコレクターの競い合いになりかなりの高額になるだろう。

現代作家を買う場合はヴィンテージかどうかは特に心配無用だろう。いまではエディション制度で制作枚数が限定されている場合が多いので希少性はある程度担保されている。またクオリティーも厳密に管理されているのでエディションの若い方が価値が高いということはない。 しかし、現代アート系写真のようにエディション数を極端に少なくしている作品には注意が必要だろう。ヴィンテージ・プリントが希少性で高額になることを逆手にとって、 制作数を少なくし、サイズを大きくすることで販売価格を高価にしているのだ。人気がでればすぐに価格上昇するので投資目的の人が好む傾向にある。しかしキャリアが浅い作家の場合、いくら高額でも価格自体に既に本源的な価値があるわけではない。将来の可能性という時間的価値があるだけなのだ。人気が全くでない可能性もある。作品価格は年月経過の中で作家キャリアが評価されるに従って上昇するものだと思う。コレクション初心者にはこの種の写真はあまりおすすめできない。
その点、小振りのアート写真は新作価格が安いので一般人向けの民主的なコレクション対象だと思う。ちなみに、上記の"Moonrise"のモダンプリントは、70年代には1000ドルにも満たない金額で売られていた。いまは安い現代作家の写真作品でも、将来に夢を見れる可能性を十分に秘めている。コレクションはライフワークとして楽しめる高度な知的遊戯なのだ。

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2010年4月20日 (火)

木村伊兵衛写真賞
高木こずえ氏の受賞理由を考える

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第35回(2009年度) 木村伊兵衛写真賞は高木こずえ氏(1985-)が受賞した。マスコミ報道によると、"一作ごとに作風を変える、その多様性が高評価を得た"という。授賞式での篠山紀信氏による選考過程の解説はだいたい次の通りだった。篠山氏は正直に、自分は高木氏の写真が理解できないと語った。そして、高木氏は自らがわからないものを撮影しているのではないかと感じたという。 たぶん本人も自分が何を撮っているかはわからないだろうと解説していた。篠山氏は、わからないから判断できないので該当者なしの白票を入れたそうだ。
選考委員は、篠山紀信、土田ヒロミ、都築響一、藤原新也の4氏。二人が高木氏を強く推したそうで、ひとりは作品ごとにスタイルが変わるのがよい、ひとりが作品展示が良いという評価だったらしい。最後のひとりは何を撮りたいかわからないから、賞を与えることは若手を誤解させると反対。そして、2対1、白票1の多数決で受賞が決定されたとのことだ。作風を変えることへの評価はたぶん藤原新也氏ではないか。藤原氏は以前から若者の保守化を憂えており高木氏を評価していた。私もこの考えには賛同したい。スタイルを変えるのは、自らのスタイルが確立した人だけに許されるとよく言われる。やたら変わるは何を撮りたいか試行錯誤の最中だからと批判されることもある。反対した人はたぶんこの点を指摘したかったのだろう。
私は作家の伝えたいメッセージが一環していれば、作品スタイルの変化は問題ないと考えている。優れたアーティストの作品は、表現スタイルが変化してもその本質は変わらないのだ。 欧米と比べて日本では写真の表層が重要視される傾向が強いと感じている。

では、高木氏は一貫して何を伝えたいのか。篠山氏によるとそれは「自分がわからないものを写真で表現すること」。やや禅問答の感じがするが、高木氏は、自分がわからないと感じるなにかを、様々な表現方法で伝えることを徹底して行っている。いま同じようなアプローチで撮影する人は特に若い世代中心に非常に多い。彼らはそれらに何らかの意味づけをしようとする。しかし、高木氏はわからないものはわからないとその感覚自体を精鋭化してテーマとしているのだ。ある意味ではメッセージは一貫しているともいえる。

では作品テーマと時代とはどのように関わるのだろうか?前記のように現在の日本では多くの人が感覚重視で写真を撮影する。これは評価基準があいまいなので、写真がより内向きのパーソナルな表現にとどまる傾向を強めている。趣味の写真なら全く問題ないがアート作品となるとコレクターにメッセージが理解されにくい。高木氏は若い世代を代表して感覚重視のアプローチ自体を作品テーマに取り組んでいる。 これこそはいまの写真界への一種の問題提起になっているのだろう。本人が確信犯で行っているかどうかはわからないが、もし無意識で行っているのならこれは選考委員たちが賞という権威を与えることで現在の写真界にもの申しているということだろう。
そのような作品は非常にコンセプチュアル。高木氏はいまの写真界の様々なトレンドを問い直すアヴァンギャルドなアーティストなのだ。それゆえどうしても理解されにくいという宿命を持っている。資料によると現代アート・ギャラリーのTARO NASUが作品を取り扱っているという。納得である。最近の木村伊兵衛写真賞ではますます多様化する写真に対応してアイデアやコンセプトにも注目するようになったということだろう。

今回の受賞は若い世代の写真家に大きな影響を与えるのではないか。高木氏は、決して自分のわからないものや、奇をてらった対象をフィーリング重視で撮影したから評価されたのではない。逆にそれ自体をテーマに取り上げて作品作りが行われた点が重要なのだ。これからは他の人が同じような作品を対象を変えて提示しても、若い25歳の写真家の二番煎じとみなされてしまうことになるだろう。これをきっかけに多くの人が如何にオリジナルであろうとするか努力するようになればと願いたい。

高木氏は今後どのような展開を図っていくのだろうか。心配なのは、あまりにも感覚に頼りすぎることだろう。それは自分の身を削って表現しているような行為なのだ。過去には行き詰まり活動を停止した人もいる。賞をもらったことで、逆に表現に不自由を感じてほしくない。高木氏の今後の活躍に期待したい。

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2010年4月13日 (火)

花の写真は売れない?
Meyerowitzのワイルド・フラワーズ

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アート写真のギャラリーを長年行っていて体得した経験則がいくつかある。その一つが、花を撮影した作品はコレクターに売れにくいということだ。モノクロよりもカラーはさらに難しい。
花はアマチュア写真家を含め多くの人が最も手軽に撮影する対象だ。きれいな写真がアートだと混同されていることも花がポピュラーな背景にあるだろう。 いまはデジタル化が進み、だれでもきれいに花を撮ることが可能になった。アート・コレクターに花が人気がないのは、自分でも撮れそうな写真にお金はださない、 また生花にはかなわないという単純な理由からだろう。

それでは撮影やプリント技術にこだわりを持つセミプロやプロによる花の写真はどうだろうか。彼らは自分の内面を花を通して表現したいという意図を持つ場合が多い。しかし感覚を見る側に伝えるのは非常に難しい。作家性が伝わらない写真は工芸品扱いになってしまう危険性がある。優れた技術だけだと、見る人は感嘆するが、心はなかなか動かない。これらの写真も同様に売れにくいのだ。

花や植物でもコレクターに売れる写真作品もある。それは、花自体を撮影しているのではなく、自分のメッセージやコンセプトがあり、それを伝える一環として花のイメージがある場合だ。米国人女性写真家のテリ・ワイフェンバックは、カラーで花や草を撮影することが多いがコレクター人気が高い作家。彼女はただ花を撮影しているのではない。撮影する対象は違うもののナン・ゴールディンのように普通の日常生活を日記的にとらえて作品化していると理解されている。
5月に行う写真展「アナザー・サマー」では、マサチューセッツ州・ロックポートで家族のスナップや草木も撮影している。しかし、これはパーソナルな写真ではなく、子供時代の精神的な成長をテーマにしたオープン・ストーリになっている。

ジョエル・マイロウィッツの写真集「ワイルド・フラワーズ」は自分の世界観を写真で伝えている典型的な例だ。彼はアメリカ東海岸のコッド岬でルミナスな風景を撮影した「ケープ・ライト」シリーズで知られる、ニューカラーの代表写真家の一人。本作は一転ストリートのスナップが中心になっている。1963年から1981年までに撮影された写真には、すべて花や植物が写っている。生花や自然のものだけでなく、車や店にペイントされた花、洋服にプリントされた花も含まれている。 豪華な花も雑草もあるように、世の中には様々な種類の人間が様々な境遇で生きている。大人になり、光り輝き、やがて落ちぶれ、一線から退くという人生の様々な瞬間は、成長し花を咲かせ枯れていく植物のようだというアイデアが作品の根底にあるのだ。彼は、葬式、祭り、式典、結婚など、人生を彩る様々な儀式と日常生活の写真を並べて花の一生と重ねている。子供、若者、中年、老人、死人までがセレクションされているのも意識的なのだろう。
これは自意識が拡大してその制御に悪戦苦闘している現代人に対する写真家からのメッセージなのだと思う。誰も特別ではない、花と同じように咲いて枯れていくだけの存在である。自分のいまできることをただ一生懸命やればよいのだ。それに気付けば肩の力が抜けて、社会で生きるエネルギーを与えてくれることを教えてくれる。そのキーワードとしての花なのだ。

「ワイルド・フラワーズ」は1983年の作品。写真自体は一見普通に見える。たぶん当時は「ケープ・ライト」の延長上で、ルミナスなストリート・スナップだと写真の表層が愛でられていたのだろう。しかし、心地よいイメージだけでなく、写真家の深い世界観への入り口が各所にちりばめられている。本作は現代アート中心の21世紀のいまでも十分に通用すると思う。そのような写真の中で咲く花は美しくかつ見る人の心を打つのだ。

写真集「ワイルド・フラワーズ」はNew York Graphic Society Books刊。ハード版とペーパー版がある。残念ながらすでに絶版でコレクターズ・アイテムになっている。

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2010年4月 6日 (火)

アートフェアー東京2010
アート・イベント専門化の予感

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週末に東京国際フォーラムで開催されていた「アートフェアー東京2010」へ行ってきた。 古美術、日本画、洋画、現代アート、アート写真までを一堂に集めて展示販売する日本最大のアート関連のイベントだ。昨年から始まった、開業5年以内の現代アートギャラリーの参加スペースは、「PROJECTS」という名称で同会場内ロビーギャラリーでの開催されていた。今年は昨年より若干少ない138の業者が世界中から参加したとのこと。

主催者によると昨年の来場者が約4万5千人、売り上げ約10億円という。それにしても会期3日で約4万5千人、つまり単純平均で一日約15,000人はすごい数だ。英アート情報誌「The Art Newspaper」が発表した2009年の世界の展覧会来場者ランキングによると、1位は東京国立博物館で開催された「国宝 阿修羅展」。一日の平均入場者数は15,960人だったので、このイベントはほぼ同数になっている。パリ・フォトの昨年の来場者は4日で約4万人。1日約1万人。パリの人は写真はあまり買わないが見るのが大好きだ。彼らの多くはパリ・フォトを一種の写真展覧会と認識しており観客動員数が多いのが有名だ。この数字を見ると、東京人はパリっ子よりもアート鑑賞好きが多いということなのだろう。
今年私が行ったのは土曜日の夕方。受け付けでも並ぶことなく、特に込み合っているという印象はなかった。観客は午後の早い時間に集中するのか、もしかしたら今年は観客の入りが昨年ほどではなかったのかもしれない。

アート写真についてだが、今年も関東の写真専門ギャラリーの顔はなかった。タカ・イシイ・ギャラリー、ギャラリー・ショウ・コンテンポラリー・アートなどの現代アートギャラリーが写真中心の展示を行っていた。新進のゼンフォトは「PROJECTS」部門に参加していた。関西で写真を取り扱う、ピクチャー・フォト・スペース、アウト・オブ・プレイス、ザ・サード・ギャラリー・アヤ、MEMなどは例年通り参加。展示作品は、新人が少なく、セカンダリー市場で評価の定まっている作家が多かった。

ある著名な写真コレクターは、イベントでの写真の存在感は昨年よりも低下している、過去に出ていた作品が再展示されていた例も見られた、とコメントしていた。確かに、質の高い写真を見せていた海外ギャラリーが昨年と比べて少なかったので、真摯な写真ファンにはやや期待はずれだったかもしれない。写真は別にして、私が一番すごいと思ったのはギャラリー小柳にあった須田悦弘の花の彫刻。白壁のブースに、1作品だけという究極のミニマリズムの展示だった。ちなみにブース出店料は70万円だ。

このイベントは今年で5年目だという。アート初心者にとって様々な分野のアートを一会場で見れることは大きな魅力だと思う。 また鑑賞するだけでなく、アートが買えることを一般に知らしめたという意味でこのイベントは重要な役割を果たしてきた。最初は見るだけでも、何回か通ううちに自分中で何らかの基準ができてくるものだ。安い小作品でも、とにかく1点買ってみるとアートはより魅力的な存在になるはずだ。ギャラリーは敷居が高いので、入場料を払うアート・イベントは選択肢の多さだけでなく、精神的にゆとりを持って作品を選べる利点があるだろう。
しかし、アートと付き合いが長くなると、しだいに自分の好きな分野がわかってくる。これは買わなくても同じで、多分野のアートが混在するイベントよりも自分好みの分野を集中して見たいと思うようになる。
今年の1月には、15軒の現代アートギャラリーが集合して「G-tokyo 2010」が開催されている。アート先進国の米国では、分野も、規模も様々なアート関連イベントが全国の都市で頻繁に開催されている。 日本ではアートコレクションの中心はまだ古美術、日本画、洋画。大規模なアート・イベントでは売り上げの大きいこの分野を外すことはまだ難しいだろう。今後日本のアートコレクターの世代交代が進むことは間違いない。コレクションの中心が次第に、現代アート、アート写真へと移行していくのではないか。アート関連のイベントも次第に多様化し、より専門的になっていくだろう。主催者もイベント業者から個別カテゴリーの経験が長いディーラー・グループへと変わっていくと思われる。

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