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2010年5月25日 (火)

アート写真の行動原理
あなたにパッションはあるか?

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現在開催中のTerri Weifenbach 展示風景

アート業界でよく聞く言葉にパッションがある。和訳すると、激しい感情、熱心さ、情熱、ただ好きという以上の意味だろう。アーティストにとって、継続して作品を制作し続けるには情熱が必要不可欠だ。以前、アート制作上重要な言葉として「覚悟」を上げたが、類似した感じだろう。
パッションは、ディーラー、コレクターにも使われることが多い。ディーラーの場合、アートはお金儲けのビジネスとしては魅力的ではないが、好きでパッションがあるから続けているということ。マスコミに登場するようなリッチなディーラーは現代アートの世界のごく一部の話なのだ。プライマリー・ギャラリーの経営方法を記した本には、成功の素養はビジネスセンスとアートへのパッションで、パッションがない人はギャラリーを開くべきではない、とまで書かれている。
また、オークションハウス・クリスティーズのウェブサイトには、顧客が自分の興味のあるアート分野を選ぶ箇所に、あなたのパッションは?と書かれている。その下にいくらまでの金額が使えるかのカテゴリーがある。何かを買うにはエネルギーが必要だ。それも高額なアートを買い続けるには単に好きだけでは続かない。
アートは作る側も、売る側も、買う側も好きであるとともにパッションがないと継続できない。これがコモディティー(一般商品)の売買との違いなのだ。

パッションの背景にはどんな思いがあるのだろうか?
アート関係者の話には、愛だの、世界平和だのがちりばめられる。さすがにアートが世界を変えるなどとは思っていないが、少しばかり浮世離れした発言の半分くらいは嘘偽りのない思いなのだ。単なる好きを超えて、ひとつでも優れた作品を送り出して世の中を少しだけでも良くしよう、それに協力しようという強い思いがある。アートはビジネスであると同時に当事者が社会的使命を感じるかが問われる。これは欧米社会に根付いているチャリティーの精神と通じるのだろう。

好景気の時には、見栄がはれる、もうかるという見通しで新規業者がアート業界に参入する。しかし、彼らにはパッションがないのでビジネス的に成功しないと継続する動機を失ってしまう。自分でやってみるとはたから見ているよりもうまみのない商売だと気付くのだ。企業が新規事業として取り組んでも成功しない理由はここにある。
実は私がこの仕事を始めたのは、単に写真を取り扱うのがカッコよくて、ビジネス的にも有望と考えたからだった。最初のころは赤字は出さなかったが儲けはほとんど出なくて苦しんでいた。当時の著名評論家に、全然儲かりません、と愚痴をいったら、そんなのは当たり前だ、と一喝されたのをよく覚えている。なんで今でも続けているかというと、その後の多くの尊敬できるアーティストとの出会いを通して世の中でのアートの可能性を信じられるようになったからだ。

単なる偶然かもしれないが、ここ数年、私の周りにパッションを持った比較的若い世代の人が集まってきた。写真文化が育っていない地方都市で写真ギャラリーを開く、空いている不動産物件を写真展示や啓蒙活動のために提供する。インテリア空間での作品展示を通して写真を広い層にアピールしようとする人などだ。 近日中に、アート・フォトグラフィー・アソシエイツ・ジャパンというアート写真普及活動を行う非営利団体の立ち上げも計画されている。
彼らにはそれぞれの思いがあり、自らの功名心や経済原則だけで行動しているのではないことは明らかだ。しかしアートではパッションとともに、アーティストと関係者間でのプロとしての相互リスペクトも重要になる。(リスペクトについては改めて触れたい) アートを利用してのビジネス展開にパッションがあるだけでは成功しないのだ。このへんが通常ビジネスとはやや違う点となる。彼らのパッションを無駄にしないために、私も可能な限り協力やアドバイスを行っていきたい。

日本では、いままで写真家が中心になってアート写真の普及活動が細々と行われてきた。しかし、アーティストの作品に付加価値をつけて販売するのは第三者が行う仕事。今回の動きで特徴的なのは、すべて写真をコレクションしたり、見せる側におきていること。やっとアート写真での作家以外の周辺分野の仕事が認知されてきたようだ。日本のアート写真の将来にもやっと明るい道筋が見えてきたのではないか。

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2010年5月18日 (火)

テリー・ワイフェンバック写真展
「アナザー・サマー」を考えてみる

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(C)Terri Weifenbach/RAM

5月21日からテリー・ワイフェンバック(Terri Weifenbach)の写真展「アナザー・サマー(Another Summer)」を開催する。私どもでは2008年の「ラナ」以来の個展になる。本展では同名写真集からタイプCプリント25点がセレクションされている。撮影は全てライカM6だ。
これは、俳優で写真集パブリッシャーとしても知られる加瀬亮氏のサンダーストーム・プレス編集によるプロジェクト。ワイフェンバックの家族を撮影した過去の作品をベースに、2008年夏にマサチューセッツ州・ロックポートで追加撮影されて完成した作品だ。
彼女によると、収録作品はすべて自然なスナップで、撮影の段取りなどの事前準備はいっさい行ってないとのこと。しかし、本作は決して一般的な家族写真ではなく、ワイフェンバックが自らの家族を起用して制作したオープン・ストーリー。写真による一種のおとぎ話のように捉えてほしいとのことだ。彼女が目指したのは子供時代の精神的な成長。自分だけの狭い世界にいた子供が広い世界の存在に気付き、自我に目覚める過程を表現したかったと語っている。

きれいなカラー作品の写真展なのだが、どうも内容はかなり複雑そうだ。子供の時は親に守られて狭い自分世界の中で生きている。色々な体験をしながら自分だけの空想世界と実社会との違いを学ぶわけだ。大人の世界を垣間見ながら、一人の人間として自立していく。感覚的なことを書くのは好きではないが、自分中心の世界にいた子供の時の記憶はカラーで光り輝いていた気がする。本作を見ていると誰しも自分が世界の中心にいた子供時代を思い出すのでないか。
一方、自我が確立し大人になった後の記憶はモノクロの場合が多い。時間の流れるスピードが早すぎて色が見えなくなっているのだろうか。ただし、休暇の旅行など童心に帰って楽しんだ時の思いではカラーなのだ。本作では子供だけでなく、大人のシルエットも撮影されている。大人でも、社会の中で背負っている役割を一瞬でも忘れると自分を取り戻す、世界が輝いて見える、そんな二重の意味合いもあるのかもしれない。

ワイフェンバックはなぜこのようなテーマを選んだのだろうか。自分が万能と考えていた子供時代を思い起こして懐かしんでほしいだけではないと思う。いまの自分の原点が子供時代にあるという意味ではないだろうか。もし今の人生に不満足で、何か問題を感じているのなら、現実を直視した上でいままでの自分の生き方を振り返ることは有用だろう。その時に、環境や他人に責任転嫁せずに自らの行動を変えることが最も現実的な対処方法だ。誰にでも幼い時に両親とのかかわりにより形成された考え方や行動のクセのようなものがある。もし、間違った考え方のクセを持っていれば、それが今の人生を不幸にしている可能性が高いと言われる。本作には米国社会の底流に流れる、自己実現することでより幸せになるという考え方を強く感じる。心理学の交流分析的な思想が背景にあるような気がしてならない。

この考え方は拡大解釈が可能だ。本作は彼女の過去の作品をベースに、2008年夏にロックポートで追加撮影が行われてまとめられた。この時期の米国はすでにサブプライム・ローン問題が深刻化し、米国社会で様々な不安心理が見え隠れし始めた時期。アーティストは世の中の心理的な変化に敏感だ。そのような社会状況が本作には反映されているのではないだろうか。
米国は新自由主義経済下で、それまでの成功体験を背景にまるで子供のように万能感を持って経済成長を追求してきた。しだいに現実検討能力が低下し、精神的充実よりも金銭的満足追求が行き過ぎたのではないか。人間が子供時代に失敗の原因を見つけ出すように、米国社会も過去の思い込みに気付き素直に反省し、新たなステージの成功を目指してほしいような作家のメッセージが隠されている気がする。

これを日本に当てはめるとどのようなメッセージが読み取れるだろうか?低成長と人口減少時代を迎え、下り坂社会といわれる日本社会で現実検討能力は低下していないかということだ。いま極端にリスクをおかさない生き方が一般化してきている。特に若者は余り未来へのロマンのようなものは持たずに堅実だ。消費に頼ったライフスタイルを構築するような意識はないという。経済状況はどんどん変化しているのに、社会はかつてのように責任をだれも取ろうとしない、事なかれ主義が再び蔓延してきた感がある。
低成長下でこのような絶対に勝てない風潮が社会で主流となると、経済のジリ貧状態が続くだけだろう。既に資産形成を終えた世代はともかく、現役世代が現在の豊かな生活を維持することはかなり困難になる。まして国は870兆円という膨大な財政赤字を抱えている。経済が衰退して増税となるとこの国の将来像はかなり暗いものになる。
上記の生き方は冷めた大人の態度にも感じられる。しかし実は傍観者的であり生産性がない、現実を直視していないのだ。
リーマンショック前の米国も、今の超堅実な日本も、ともに行きすぎだと思う。この二つの中で妥協点を見つけ出す知恵が早急に求められていると思う。

優れたアートは現在の自分が置かれた状況を客観的に見つめる機会と未来を真に現実的に生きるためのヒントを与えてくれる。
ワイフェンバックの作品はまさにその好例だと思う。少しばかりワイフェンバックの解説から飛躍しすぎた気もするが、見る側が意識的であれば美しいカラー写真は様々な考えを展開する入り口になる。ぜひギャラリーで作品と対話をしてみて欲しい。

テリー・ワイフェンバックの写真展「アナザー・サマー」5月21日から開催。
営業時間は午後1時~7時、日曜、月曜が休廊。
既に絶版になった同名写真集も現定数だけギャラリー店頭で販売する予定です。

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2010年5月11日 (火)

ソウル・フォト2010
韓国アート写真の現在

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ゴールデン・ウィークにはソウル・フォト2010に出展してきた。本当は現地の写真事情などを詳しく調べたかったのだが、朝11時から夜の8時まで展示ブース内での接客が忙しく、あまり情報収集に動き回れなかった。とりあえず、韓国のアート写真市場の大雑把な印象を書いてみたい。

市場をとりまく状況はかなり日本に近いという印象だった。富裕層は間違いなく存在するが、特に写真分野のコレクター層がまだ育っていないのだ。オーディエンスのレベルは日本の1990年代後半~2000年代前半くらいとほぼ同じなのではないだろうか。

欧米アート写真市場は約25年~35年くらいの歴史がある。70年~80年代に銀塩写真中心の市場が立ち上がった。オークションが定期開催されるようになり、ギャラリー店頭で多くの写真作品が売買されるようになる。やがて購入対象が、カラー作品、ドキュメンタリー、ファッションに広がっていった。 時間経過の中で戦後世代の写真作品がアートと認められる。その一連の流れの延長線上で現代アートと写真が出会うことになる。  日本では、80年代くらいまでは年長者の美術品収集家は写真にほとんど関心を示さなかった。それが他のアート作品との割安感からブランド写真家の作品が90年代に売れるようになる。洋書写真集が売れるようになり、その後に写真を本格的にコレクションする新しい層が徐々に育っていく。しかし、海外の有力作家がコレクションされる一方で、日本人写真家の市場はいまだに発達途上だ。

では韓国の状況はどうだろうか。現地の人によると、もともと絵画を買う人はいて、彼らが10年くらい前から写真を買うようになったという。しかし、それらは写真表現には違いがないが絵画の代替物として買われたようだ。写真の独自の歴史的背景はなく、一気に現代アート的な写真が登場してきた感じだ。この点はかなり日本と共通していると思う。立ち帰るべき原点や歴史伝統がないことから表現に制約が一切なく、作品はアヴァンギャルドだ。これは存在基盤が脆弱とも感じられるが、現状認識が出来て、理論構築が出来れば逆に特徴になり得ると思う。日本、韓国の両国でアート写真が社会に根付くための課題だろう。

韓国作家の表現は、多少なりとも銀塩写真の歴史を持つ日本以上に自由だと感じた。その前衛性は地元ギャラリーの作品を見れば一目同然で、絵画と同じように色彩が豊かで巨大作品が中心に展示されていた。グリーンやピンクのフレームには多少驚かされた。モチーフは多種多様。風景、花、静物からデジタル加工されデフォルメされた人物、動物も多かった。
立体的なレンティキュア作品、LEDを使用した作品も見られた。全体的なヴィジュアル・センス、プリント・クオリティーは日本と比べてやや劣っている印象。作品レベルにはかなりバラつきがみられ、アマチュアの写真を単に大きくしただけのような作品も散見できた。モノクロ写真の技術力はもともとあまり高くないそうで、最近のデジタル化進行でアナログ写真の質低下傾向は強まっているという。美しいプリントを見た経験が少ないことからクオリティーにこだわらない人が多いらしい。
小振りのモノクロ写真を展示していたのは、私ども以外では日本から参加していいたツァイト・フォトサロン、MEMなどしかなかった。しかし、ブックマットを依頼した現地業者は非常に手慣れた様子だった、仕事のミスはほとんどなかった。地元ギャラリーは単価が安い小振りな銀塩作品をあえてフェアーに展示しなかったのかもしれない。欧米で確立しているファイン・アート・フォトグラフス分野は現代アートの一つのカテゴリーとして存在している感じなのだろう。

ソウル・フォトは今年から国際的なイベントになった。しかし来場者はほとんどが地元の人、中国や欧米のコレクターはほとんどいないようだった。
フェアーで売れていたのは、韓国ギャラリーの作家が中心だった。上記のように絵画の代替物的な作品だ。やはり、ヴィジュアル、クオリティー的に優れた作品しか売れていなかった。作品テーマははどうかというと、言葉の問題で作家と話す機会はあまり多くはなかった。しかし、躁鬱病を持つ作家が自分の心が和むからと、何気ない毛糸を丸めたものを撮影して大きくしていたシリーズはかなり売れていた。儒教的な精神が強かった韓国でも、核家族で育った若者の中にはドライな人間関係を求める層も増加しているという。大家族的な伝統的な文化との軋轢があることは容易に想像できる。文化的背景が異なっても、心の癒しはグローバルなテーマなのだろう。

現時点では韓国内でブランドが確立していない外国人写真家はかなり不利だと感じた。ゲスト国スペインのギャラリーは実力のある中堅作家を展示していたが、作品が理解されないと不平を漏らしていた。大きなカラー作品を好むという地元事情を意識して現代アート系作品を持ち込んだ海外ギャラリーも苦戦していたようだ。親しみのない外国人作家よりも作品制作の背景がわかりやすい地元作家が有利なのだ。
しかし国際的な知名度が確立している作家は売れていた。やはり作家のブランドだろう。私どもでも、世界的に活躍しているマイケル・デウィックの大判作品には引き合いがあった。その他、ホルスト、リンドバークなどは価格の照会がかなりあった。ネット普及で有名作家の情報は世界のどこでも共有しやすい環境があるのだ。
ちなみにソウル市内の一等地にあるギャラリーでは、世界有数のブランドであるデミアン・ハーストの展覧会が開催されていた。

Blog2

日本人写真家の作品はおおむね地元客に高く評価されていた。日本のギャラリーのブースの展示作品は非常に洗練されているという意見が多かった。
彼らは展示作品の写真撮影を普通に行う。ただ記録するのではなく自分が気に行った写真を記念に撮影するようだ。彼らの行動を観察していると、日本人作家はかなり気はいっていた様子。人によっては作品の背景まで読み解こうとする人もいて、ナオキ、トミオ・セイケ、高橋和海、丸山晋一などについてはかなり質問を受けた。しかし、イメージや作品アイデアは好きだが、まだ写真自体を買うものという認識はなく、当然のこととしてその価格が適正なのかも判断できないのだ。これは日本もほぼ同じで、 違いはその中から購入したいという人が多少出てきたというレベル。韓国ではまだその割合が低いのだ。
写真集に対する関心は非常に高かった。写真集なら買いたいという段階なのかもしれない。持ち込んだトミオ・セイケの写真集は現地レベルでは決して安い金額ではないと思うが完売してしまった。また、持参しなかった丸山晋一の写真集「空書」を買いたいという人は何人もいた。このような状況は5年くらい前の日本とかなり重なってくる。

また地元の人に韓国人作家の作品をどのように感じるかも聞いてみた。面白いことに、私が文化の違いで理解不能と感じていたような作品を彼らも解らないと発言していた。つまり、韓国作家の表現にリアリティーを感じていない一般人も多いようなのだ。これは同じく日本でも起きている現象。理解できないものに誰もお金を払わない。もしかしたら、韓国でも一般の人が欲しいと思う作品が市場に提供されていないのかもしない。これについてはもう少し調べてみたいと思う。

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主催者からの正式発表はないが、観客動員数は非常に多かったと思う。隣で開催していたカメラ関係のフォト&イメージング見本市からアマチュア写真家が流れてきたこともあるだろう。東京で開催されるアート・フェアーと同様に、市場が発展途上の国では鑑賞目的の人が多数訪れる傾向があるようだ。一方、多額の売り上げを記録するニューヨークの・フォトグラフィー・ショーの入場者数合計は1万人にも満たない。アート先進国では見る目的の人は美術館へ、購入目的の人がアートフェアーに行く。だから、両者のビジネスモデルはかなり違うと感じた。
東京やソウルのフェアーは主催者売り上げに占める入場料比率がかなり多いのではないだろうか。ニューヨークのフェアーは元々ディラーが作品販売するために企画された。ギャラリー参加者の出店料はかなり高額。しかし、多くのコレクターが真剣に買いに来るプロ同時の場なので割にあうのだ。
アジアのアート・フェアーはアマチュア写真家中心の集客で多彩な作品を見るためのイベントになっている。コレクターは観客の中から次第に育っていくということだろう。ソウルの場合、市場が発展過程であることを主催者は考慮して出店料を低く抑えている。ブースのスペースが非常に広いので割安感はある。参加する側も、韓国の大手などはギャラリー紹介という広告宣伝的な効果を優先させていた印象が強かった、販売面では中長期的な視野に立っているのだろう。それに比べて、狭いブースで高額な参加料のアートフェアー東京などは単価の安い写真中心のギャラリーにかなり重い負担を強いている気がする。

さて韓国で写真作品を売るにはどうすればよいだろうか?アート写真市場は日本に非常に近い発展段階にある。今後は従来と違う、新しい世代のコレクターが育っていくと思われる。まずどの分野で勝負するかを絞り込む必要があるだろう。国際的な知名度が高く、既に資産価値のある作品には需要がありそうだ。プライマリーの場合、韓国人が伝統的に好むカラーで大きな作品か、新しい世代へ中間から小振りサイズの写真作品を紹介していくかだろう。テーマはどうだろうか。文化的な違いがあるものの、グローバル経済が進行する中で共感できるアイデア、コンセプトも存在するはずだ。そのようなテーマを追求している作家の作品は両国ともに受け入れられるはずだ。
どちらにしても作家のブランド構築が欠かせない。日本からただ持ってきて展示するだけではだめで、あらゆる機会を利用して、作品と作家のメッセージを継続的にアピールしていくことが必要だろう。
将来的に日韓のギャラリーが交流をはかり、共通の市場を見つけだせれば素晴らしいと思う。アート・フェアーは異なる文化がコミュニケーションを開始する重要な機会になるだろう。

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