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2011年3月29日 (火)

掘り出し物のお宝が続出!
幻のアンセル・アダムス(?)ネガの価値は?

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中国人のアート熱の高まりはマスコミで多く報道されている通りで凄まじい。
特に清朝の陶器は昨年11月に56億もの高額で取引され話題になった。これは中国の美術品のオークション最高額とのこと。大きく報道された理由は、そのサイドストーリーによるところが大きい。実はこの陶器、価値を知らないある英国人の家で偶然発見された。ロンドン郊外の小さなオークションに出品され、高額落札されたのだ。もしこれが、大手のササビーズ、クリスティーズなどで取引されたものなら業界内での話題に終始しただろう。価値がないと思われていた陶器が思いがけない掘り出し物だったからマスコミで話題になった。「なんでも鑑定団」が長い人気を保っているのと同じような背景だ。アヘン戦争後中国の美術品は大量に英国に持ち出されたそうで上記の陶器はそれらの一部なのだろう。たぶんいま多くの英国の家庭が倉庫、納屋、屋根裏を調べていると思う。もしかしたら新たな掘り出し物が見つかるかもしれない。

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今月になってこんどはササビーズのニューヨークで再び衝撃的な掘り出し物が見つかった。20世紀制作として、落札予想価格約10万円で出品されていた花瓶に約15億(!)というとんでもない値段がついた。複数の目利きが、陶器は実は清朝時代のものと判断したこと。7人による熾烈な競り合いになったようだ。

最近は、このような信じられないような掘り出し物のニュースが多い。まだ真偽のほどは確定していないが、英国ではノーザンプトンのガラクタ屋で僅か1万円ほどで購入された古い額についていた絵画がポール・セザンヌの初期作品ではないかといわれている。もし本物なら、6500万ドル(約55億円)の価値があるそうだ。

さて写真でこのような掘り出し物はあるだろうか?
実は昨年同じような出来事があったのだ。2010年7月に、カリフォルニアのガレージセールで約10年前に45ドルで買われたガラスプレート・ネガティブが1937年の火災で消失したと思われていたアンセル・アダムス作と認められたとの発表があった。専門家がその価値が2000万ドル(約170億円)と評価したのことだった。発見者リック・ノーシジアン(Rick Norsigian)はそれらを売却してビーチに家を買いたいと発言していた。彼は発見されたネガから制作されたプリントをアンセル・アダムスとしてウェブサイトで販売を開始する。これにアンセル・アダムス出版権財団が異議を申し立て裁判となる。
この一連の出来事にはドラマチックな紆余曲折がある。その後、鑑定した専門家の一人が、ネガはアンセル・アダムスではなくアマチュア写真家アール・ブルックス撮影であったと、間違いを認めるのだ。2011年の3月に裁判は結審。発見者は作品販売に関してアンセル・アダムスの名前を使わないことが合意された。
しかし、お互いに本物、偽物の主張を続けた上での和解ということのようだ。

この一連のマスコミの騒ぎにアート写真界はいたって冷静だった。なぜか?それは本当にアート作品として価値があるのは、作家が制作してサインをしたオリジナル・プリントだからだ。2000万ドル(約170億円)という評価の根拠はその発見物の価値ではない。もし本当にアンセル・アダムスのネガだった場合の、将来的な出版、ポスターやプリントの売り上げ予想から現在価値を導いたものなのだ。それゆえ、アンセル・アダムス作という表記が出来ないことはネガの現在価値に著しく影響を与えるだろう。
すなわち、仮にネガが本物であっても既に作家本人は亡くなっているから、それらから制作されたプリントはアート的価値はないのだ。ネガティブだけでは、インテリアのディスプレイ用の写真を制作するものとして役に立つだけ。実際アンセル・アダムス・ギャラリーはオリジナルのネガからプリントしたヨセミテ・エディションと呼ばれるエステートプリントをわずか約2万円で販売している。

アート写真の世界では、有名写真家のネガは資料的な価値しかない。価値があるのは本人が制作して、サインが入ったプリントなのだ。骨董店などで売っている古写真はどうかというと、写真家のブランドが確立していない人の撮影したプリントには古物としての価値しかない。海外でも無名写真家の19世紀や20世紀初頭の作品はわずか数百ドルだ。
また20世紀の中盤ころまでは写真は雑誌などの為に撮影されていた。たまに写真原稿が小規模オークションなどにでてくることがある。厳密にいえば、ヴィンテージ・プリントといえないことはない。しかし、それらの写真は注文仕事で撮影されたもの。つまり、アートで重要視される自己表現ではない場合が多い。だいたいサインも入っていない。それらは、写真集に収録されているなどの例外を除いて、有名写真家のプリントでも高額で取引されることは少ない。大手のオークションハウスは取り扱わない。

どうも写真では掘り出し物はあまり期待できないようだ。そういえば前記の「なんでも鑑定団」では、歴史的人物のポートレート以外の写真が鑑定に出されたことはないように記憶している。

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2011年3月22日 (火)

こんな時にアートは何ができるか?
ギャラリーでは仙台出身作家の写真展を開催!

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(C)Naoki Shimomoto 石巻, 2007

大きな自然災害が発生した時にアートが無力だと感じるのは当たり前のこと。震災の影響で様々な動きがアートの世界でも起きている。展覧会を中止してギャラリースペースで募金活動を行ったり、企画の延期や中止したところもあるようだ。広尾のIPCで開催予定だった、「Infnity」展も5月に延期された。写真家主催の写真展も中止、延期が散見される。
都内でもガソリン、米、牛乳、トイレットパーパーがまだ入手困難な時に高額のアート作品が売れることはあり得ない。ビジネス的にはしばらくは営業しない方が賢明かもしれない。

一方で、営業を続けているところもある。ただし、計画停電があるので、営業時間を短縮したり、節電モードでの営業だ。
ブリッツは普段1時~7時までの営業を5時までにして、節電モードで営業を継続している。当初はほとんど来廊者はいなかったが、先週末などは客足はかなり戻ってきている。
開催中の横木安良夫写真展は、彼の人生観が強くあらわれた写真展だ。「写真家にとって一番大事なのはシャッターを押すことだ。」というメッセージがが反映されている。単に綺麗な写真を展示している写真展ではない。現在のような状況で続けても特に問題がないと判断した。なお、作家と相談して本展の売り上げの一部を義援金として「日本赤十字社」を通じ、被災地の方々へ寄付することにした。

同時に、様々な人や組織が被災された地域を応援したいと動き出しているようだ。ヴェストリヒト・フォトグラフィカ・オークションは、次回開催のオークションの一部をチャリティオークションとし、その収益金を寄付することに決めたという。阪神淡路大震災の時は、新聞社が主催となって海外作家の作品が多数提供されてチャリティー・オークションが開催された。そのような動きがあればぜひ協力していきたい。
アート写真分野の場合、チャリティー写真展などがすぐに思いつくアイデアだろう。しかし、日本では市場で資産価値がある作品が非常に少ないのが開催のネックになっている。 写真展開催にはたいへんな労力が必要。チャリティーでも作品が売れなければ意味がない。それなら直接募金した方がよいだろう。非常に悩ましいところだ。

とりあえずギャラリーとしては写真展を通じて支援活動を行いたいと思う。5月のゴールデンウィーク明けには、仙台出身の下元直樹による写真展「取り残された記憶」を開催することにした。売り上げの一部は日本赤十字社を通じて寄付する予定だ。
本作は、宮城県の亘理町、気仙沼市、石巻市、女川町、岩手県の宮古市、釜石市、大船渡市、福島県の相馬市、青森県の八戸市、山形県川北町などで2004年から2009年にかけて撮影されたもの。
多くの撮影場所は今回の東日本大地震による大津波で壊滅的な被害にあった地域。彼が撮影した海沿いの漁村のシーンは残っていないところも多いと思われる。下元は、東北の海沿いに点在する漁村に残る、住宅、店舗、倉庫、工場跡の朽ち果てて錆びた壁面をクローズアップと巧みなフレーミングで撮影している。作品は日本の経済成長の陰の部分にフォーカスしたドキュメント。硬派なテーマなのだが、グリッド状に展示されるタイポロジー的作品は、グラフィカルにきれいな上、カラフルな色彩はポップで魅力的なのだ。彼は寂れた漁村のドキュメントの中でイメージ自体の美しさを見出している。ネガティブをポジティブに変える作品が評価されて、昨年開催された「Imperfect Vision」展に選出されている。

4月に開催される「ソウル・フォト2011」では、大震災被害者を支援するための何らかの展示を行うことを急遽決めたという。日本からの参加ギャラリーは大震災の影響で減少したそうだ。私どもは予定通り参加するので、できる限り協力したいと考えている。

アートは大規模な自然災害を前に何ができるか?それぞれの多様な考えがこれから提示されてくるだろう。

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2011年3月15日 (火)

東日本巨大地震の復興に向けて
アート写真に何かできることはないだろうか?

今回の巨大地震により被災された方、影響を受けた方々に心よりお見舞い申し上げます。

今回の大地震を受け、多くの海外の写真家や関係者からお見舞いのメールが届いた。既に募金に協力したという知らせもあった。今週末にニューヨークで開催のフォトフェアーでは利益の一部を寄付するというディーラーも出てきているらしい。たいへんありがたいことだ。ブリッツは特に被害を受けなかった。提携先の仙台のカロス・ギャラリーも仙台在住の写真家も大丈夫だった。
一方で東京でもアート写真業界に影響が出始めている。東京都写真美術館、国立近代美術館などは地震発生から15日(火)まで緊急閉館になっている。設備のチェックと従業員の通勤に問題があったのだろう。ギャラリーも週末にかけて休廊になったところもあったそうだ。月末にIPCで予定されていた、写真展「infinity」は6月に延期となった。国際荷物のフェデックスも業務休止の様で荷物が配達されない状況が続いている。
しかし一番大きなのは精神面の影響。アートが愛でられるには、社会不安がなく人々の生活が安定していることが大前提だ。このような非常時ではギャラリー、美術館も開店休業状態が続くだろう。

現時点では不確定要素が多すぎて、どのくらいで市場環境が改善するかの予想は難しい。ちなみに、アート写真の中心地ニューヨークをも巻き込んだ2001年9月11日の同時多発テロ後の市場の動きは多少参考になるかもしれない。開催が危ぶまれていた翌月の秋のオークションは無事に開催されている。しかし、相場が回復してきたのは2003年の秋になってから。本格回復は2004年春までかかっている。約2~3年間は、本当に希少で資産価値がある逸品以外は売れなかった。低価格~中間価格帯の作品の動きが鈍く、新人作家にとっては非常に厳しい時期だった。アート作品の投げ売りも散見された。アート写真市場は株価と連動していることが多い。当時はITバブルが崩壊して景気が後退局面入りしていた時期だった。それに9.11テロが追い打ちをかけた。状況はリーマンショックから回復傾向にあったいまの方が多少良いだろう。同時多発テロ後、NYダウは2002年10月にかけて7000ドル台の安値をつける。その後2004年の春になり、やっと1万ドル台まで回復する。NYダウは将来の経済状況を反映しているという。それはアート写真市場にも当てはまるようだ。
ところが市場規模が圧倒的に小さい日本市場では、株価との相場との連動はあまり感じられない。ともかく株価上昇によるセンチメントの好転が必要なのは明らかだと思う。

余震、原発問題、計画停電などで厳しい状況はしばらく続くだろう。しかし事態が落ち着いたら、復興活動が確実に始まる。同じ日本人として、被災地域の人たちに何らかの支援を行いたい。個人ではもちろんだが、アート写真に関わるJPADSやギャラリーで何かできることはないか? 写真家や関係者を巻き込んで何らかの具体的なアイデアを出したいと思う。

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2011年3月 8日 (火)

日本市場で今求められるフォトフェアーとは?
ザ・JPADS・ フォトグラフィー・ショー

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Blitz Gallery の展示風景

ザ・JPADS・ フォトグラフィー・ショーが無事に終了した。
ご来場いただいた皆様ありがとうございました!

今回のフォトフェアはいくつかの特徴があった。まず、販売業者が主催し運営したこと。そして徹底的な低予算のテーブル・トップ・フェアだったことだ。

日本のアートフェアは一種の展覧会化している。主催するのはイベント業者。彼らはできるだけフェアを豪華にして多くを集客して利益を上げようとしている。見栄えの良い会場を借りて、ブースを作りつけ、多額のプロモーション費用をかける。そのためギャラリーの参加料は高額だ。これは、主催者や来場者には都合が良いだろう。しかし、作品があまり売れない写真分野では参加ディーラーにあまりメリットがない。広告宣伝としてもコストが高すぎるだろう。

日本でアートフェアが急増したのはここ3~4年くらいだ。多くのディーラーが幻想を持っていたから高い費用を払って参加してきた。不況で店頭での売り上げはどこでも低下傾向だ。大規模なフェアに出展すれば、多くの人が来て新しい顧客が開拓でき、展示作品を気に入ったからと購入する人がいるはずだという期待があった。しかし、写真に関してはそのようなことは現実にはほとんど起きないのだ。
要はコストをかけたイベントが正常に機能するまでに市場が発展しきれていない、まだ黎明期だということ。それはどのような意味かと言うと、日本のアート写真市場にはギャラリーの店頭で長年活躍しているプライマリー作家の蓄積がほとんどないということだ。厳密に言うと、ただ作家活動を続けているのではなく、作品が実際に市場で継続的に売れ続けている作家という意味だ。従って日本にはアート写真のセカンダリー市場はほとんど存在しない状況なのだ。
これはギャラリーの収入源となる中間価格帯の作品に厚みがないということ。結果的に、各種フェアーで展示されるのは、評価の定まっていない新人、中堅と海外の比較的高額な作家が中心になる。多くの日本人はアート写真の相場観を持たないので高額商品は売り難い。仮に売れても海外作家のセカンダリーは値段勝負なので、よほど仕入価格が安い場合を除き利益は限られている。安い新人が多少売れても高額なフェア参加料や経費を回収することは難しいのだ。

以上から、いま日本でフォトフェアを開催する主要な目的は市場拡大のための顧客への啓蒙活動を行うことなのだ。今回のJPADSのフォトフェアはそのような前提に立って企画された。つまり、短期的な結果はともかく、写真がアート作品の一部として様々な値段がついて売られている状況や、数多くの選択肢があり、全て買えるというワクワク感をを多くのコレクター予備軍の人たちに体験してほしいのだ。
プロモーションに費用をかけて観客を増やすよりも、フェア内容を充実させてコレクター予備軍を少しずつでも増やす方が重要だと判断したわけだ。とにかく売れても売れなくても継続しなければならない。ちなみに米国のAIPADのフォトフェアは約30年、パリフォトも約15年の歴史があるのだ。 日本では多額の売り上げは期待できないので、続けるためにはできるだけ参加者の費用を下げることが必要になる。業者主催の徹底的な低予算のテーブル・トップ・フェアは必然なのだ。費用をかけた大仰なイベントは市場が十分に成長した後に行えばよい。

さて、結果はどうだったかというと、4日間で400名を超える人が来場してくれた。販売に関してはあまり期待していなかったのだが、ダイアン・アーバス、ジョエル・ピーター・ウィトキン、ジャンルー・シーフ、オリビア・パーカー、マイケル・デウィック、ハービー・山口などは引き合いがかなりあったようで、多くは商談が成立したそうだ。手頃な値段のティンタイプとアンブロタイプは良く売れた。実は、フェアは顧客との商談が始まる場でもあることが多い。多くのフェアで売り上げ報告がないのは、実際の売買が成立するのはフェア終了後が多いからなのだ。

さて次回のザ・JPADS・ フォトグラフィー・ショーは、今秋に予定している。今回の経験と数多くの反省点を生かして、より充実したフォトフェアへと進化させたい。

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2011年3月 1日 (火)

横木安良夫「Glance of Lens 2011」展開催!
アイデアと感覚重視の写真への一撃!

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(C)Alao Yokogi

今週の金曜日からは横木安良夫の写真展「Glance of Lens 2011」を開催する。これは前回2006年1月に開催した「Teach your Children」の続編の個展になる。 主に80年台~最近までに撮影された作品を展示する。作家キャリア的には、前作は日大芸術学部時代から、カメラマンのアシスタント時代までの作品。本作はそれ以降のプロ写真家としてデビューしてからのものとなる。

ギャラリーは一人の作家で最低10年に3回の個展開催を考える。横木の場合は、前回から5年近く経過しているのでそろそろ展示の時期だと意識していた。今回はどのように見せるかはかなり悩んだ。前作以降は商業写真家として非常に多忙な時期。作品制作に取り組むのはかなり難しかったと思われる。それでもアジアや米国で撮影されたいくつかのポートフォリオは残っている。ただそれらを単体でいま見せるのにはやや無理があると感じていた。そんなときに、以前ポートフォリオ・セットを制作した「Glance of Lens」シリーズに添えられていたエッセーを読み直す機会があった。一読して、次回作はこれだ!と直感した。以下に転記しておく。

街を歩く。クルマに乗り、地下鉄に揺られる。いつのまにか未知の土地 を歩いている。突然、耳の奥で誰かが囁く。「シャッターを切れ」と。目の前にはありふれた風景が広がっ ている。通り過ぎる人々もごく普通だ。 「眺めてないで、早く撮れ」と命令する。カメラを構える。頭のなかは空っぽだ。「撮ればいいんだよ。わからないんだろう。だから撮るのさ」 もはや指令に従うしかない。それは潜在意識。言葉にならない「衝動」それこそが主題だろうか。カメラによって世界は断片に切り刻まれる。薄片となったそれは記憶として無限に増殖する。そして再び僕の網膜に飛び込んでくる。それこそが真実の世界なのか。  横木安良夫

彼は、写真家は撮影する行為自体をもっと大事にすべきだと主張している。いまのアート界では現代美術が市場を席巻し、写真もその一部に組み込まれた感がある。そこはアイデアやコンセプトがすべての世界。しかし、上記文章のように、横木はアイデアを生み出している自己概念そのものの存在を疑うのだ。少し小難しい言い方になるが、それは"自己"が人の内部にあって、そこから様々な判断を下しているのではないかもしれない。 自分がいるという感覚は、脳の中にある心的モデルかもしれないということなのだ。
実は、これと似たような考えは、多くの心理学、哲学、生物、宗教などの専門家が様々な文脈で語っている。過去や未来ではなく、いまに生きるという禅の思想にも通じる。
人間の生きる苦しみは自分のエゴが原因のことが多い。悩む自己が存在しないならば、何物にもとらわれずに真に精神的に自由になれるのだ。自分がいなくても起きるべきことは、ただ起きる。何事もなるようになるし、なるようにしかならない。真の創造性はアイデアやコンセプトのない時に生まれるのではないかという問いかけでもある。これは一瞬、巷で氾濫している感覚重視の写真と同じに感じるかもしれない。しかし横木の写真はそれらとは決定的に違う。なぜか、それは彼には自分の“優れたセンス”を生かして撮影しているというエゴがないのだ。彼の凄いところは写真バカになれることだ。これは言葉でいうほど生易しいことではない。能力が劣っている人ほど自らを過信しているとはよく言われることだろう。禅の修行がうまくいかない人は、バカになれないからともいわれる。「Glance of Lens」は作品テーマがないこと自体がテーマ。まるで禅問答なのだ。 横木の「レンズの一瞥」は頭でっかちで感覚重視になったアート写真への一撃でもあるのです。

本展には、過去25年に撮影されたモノクロ・カラーの代表作、未発表作約27点がセレクションされている。多くが100 X 70cmの大判プリントによる展示。大判作品は、市場では数十万円の価格で取引されている。しかし、本展での価格設定はかなり挑戦的になる見込み。100 X 70cmをフレーム込みで6万円位で販売する予定だ。

写真展は「Glance of Lens 2011」は3月4日(金)~、東京目黒のブリッツで開催します。
営業時間は午後1時から7時まで。日曜、月曜が休廊です。

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