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2016年5月10日 (火)

新山 清 写真展
サブジェクティブ・フォトグラフィー
日本独自のアート写真の原点ここにあり!

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Morning Glory, 1962 ⓒ Kiyoshi Niiyama

この写真展は、私がこのところ主張している日本独自のアート写真の価値基準提示を意識したものだ。限界芸術や民藝の写真バージョンとして紹介しているクール・ポップ写真。詳しくは、過去に書いた6回ほど解説を参考にしてほしい。その定義はやや難解なので、どのような写真なのか実際の作品を見てみたいという人が非常に多い。写真を説明するには実際のヴィジュアルを見て考えてもらうのが手っ取り早い。実はこの新カテゴリーの原点の一つだと私が評価しているのが新山清の写真作品なのだ。
彼の作品は、いままでご子息の新山洋一氏が写真展開催や写真集出版を通して紹介してきた。プロ写真家や写真趣味の人たちにも評判がすこぶる良い。しかし、彼らは新山清の作家性ではなく、表層のヴィジュアルを愛でているだけではないかと私は常々疑っていた。彼のモノクロ写真は、グラフィカルに美しいイメージが多く、また抽象的作品が多いのだ。日本では優れたデザインがアートだと単純に考える人が多いので、その視点からの評価ではないかという疑問だ。
これはかつて日本にサブジェクティブ・フォトグラフィーが導入されたときの評価と同じで、本来の意味が理解されず、写真撮影やプリント制作の方法の一つだと理解されたのだ。作品制作時の方法論が目的化すると写真はワンパターンに陥りやすい。撮影方法追求の行為にアート性があると勘違いするのだ。現代の写真家でも、この罠にはまってしまい抜け出せない人は数多くいる。ファイン・アート系作家を目指すのなら、制作手法の前に、社会と能動的に接して問題点を自分の頭で考え抜いて提示しなければならない。同じ写真メデイアなのだが、求められる素養が全く違うのだ。

話を戻すが、本展ではなんで彼が今欧米で再評価されているのか、その本質に迫るとともに、日本独自のアート写真表現との関連を提示したいと考えている。

彼はドイツのサブジェクティブ・フォトグラフィーの提唱者であるオットー・シュタイナート(1915-1978)に作家性を認められた写真家。そのあたりの経緯はプレスリリースを参照してほしい。
サブジェクティブ・フォトグラフィーは、1951年にザールブリュッケン国立美術工芸学校で開催された同名展覧会と、翌年に刊行された同名写真集において提唱された写真表現についての考え方のこと。これは、1920~30年代に登場した、ラズロ・モホリ=ナジ、マン・レイ、アルベルト・レンガー=パッチェらによる、新しい写真のリアリズムとフォトグラムやフォトモンタージュのような造形美を追求した、いわゆる「新興写真」を発展継承した運動だった。シュタイナートは、サブジェクティブ・フォトグラフィーは、非対称的(ノン・オブジェクティブ)な、画面の抽象的な構成を中心とする実験写真的なフォトグラムから、深みのある、美学的に満足できるルポルタージュまで、個人的な写真創造のあらゆる局面を含んだ枠組みを意味する。と語っている。
日本では、サブジェクティブ・フォトグラフィーは"主観主義"と訳される。1956年には「日本主観主義写真連盟」がアマチュアとプロの写真家とで結成。彼らの活動は当時流行のリアリズム写真に対抗するものだった。しかし、日本での運動は、残念ながら50年代末には勢いをなくしていくのだ。前記のようにワンパターンに陥り、飽きられたのだろう。

それでも新山がこの分野の作品を制作し続けられたのは、彼がアマチュアリズムを追求する写真家だったからだと考える。当時のアマチュア写真家の意味合いはいまと違っていた。写真で誰かとつながるとか、他人から承認を求めることなど誰も求めなかったのだ。新山はアマチュアであるがゆえに、プロ写真家のように写真界の評価を気にすることもなく、自らの主観的な撮影スタイルが追求できたのだろう。ややわかり難いので、もう少し具体的に見てみよう。

彼の一連の写真を見ると自分の周りの様々なシーンを綿密かつ強度を持って観察しているのがわかる。写真を通して自然探求を行っていると解釈できるだろう。それができる人と、できない人がいる。観察を行う前提として、目の前に広がる世界には客観的な見え方などなく、それぞれの人によって違っているという気付きが必要なのだ。見え方が違うから解釈も違って当然ということになるだろう。このような個人主義的なスタンスは日本人には珍しいのだが、彼が理系の人間だったから持っていた感覚ではないだろうかと私は推測している。綿密な観察を行った結果、世界で見たり、感じるものは一連の法則があることに気付いたのだろう。写真家キャリアのどこかの段階からは、新山の内面にはその法則に従った宇宙が形作られて、それに従って世の中を解釈してきたのではないだろうか。
その視点で、ストリートシーン、シティースケープ、ランドスケープ、自然植物、静物、ヌードなどを撮影してきたということだ。一連の作品の中にはデザイン的な美しいシーンをとらえた写真もあるが、乱れや汚れの中に存在する美しさを表現している作品も散見される。対象物は多様なのだが、私はそれらに共通な「ゆらぎ」を感じるのだ。
それは日本で一般的な、デザイン感覚や感性のみを重視して撮影された作品とはかなり違う。まさにシュタイナートのサブジェクティブ・フォトグラフィーの意味を、的確に踏襲していたのだ。本展では、以上のような新山の頭の中の宇宙が再現できるような作品セレクションと展示方法を意識している。
さて、では新山のサブジェクティブ・フォトグラフィーの撮影アプローチは意識的だったのか?もちろん、シュタイナートは意識的だと理解して彼を評価した。しかし、私は彼は本源的に持っていた理系的な自然観測の視点から、無意識に撮影を行っていたのではないかと考えている。シュタイナートは新山作品の中に"テーマ性の見立て"を行ったのだ。そして、彼の一連の作品が真に無意識のうちに制作されたのなら、まさにそこに"作品制作意図の見立て"が可能になるのだ。つまり私が主張しているクール・ポップ写真の写真史上の繋がりを発見できるということだ。
いま新山の写真は、欧米のサブジェクティブ・フォトグラフィーの流れで評価されている。それは日本には彼を評価する基準が存在しないからだ。私は日本独自のアート写真である"クール・ポップ"写真として評価したほうがわかり易いと考えている。ぜひ多くの人に実際の写真展示を見てもらい、意見交換をしたい。
 
展示作品はすべてが銀塩モノクロ作品だ。撮影当時に本人によりプリントされた貴重なヴィンテージ・プリントと、作家遺族の管理の上で制作されたエステート・プリントが、パート1とパート2で合計約45点展示される。
5月13日は50代の若さでなくなった新山清の命日に当たる。写真展開催を通して少しでも故人の霊を弔うことができれば幸いだ。
 
 
「新山 清:サブジェクティブ・フォトグラフィー」
-ヴィジュアル世界の冒険-
 
(1) 2016年 5月12日(木)~ 6月4日(土)
(2) 2016年 6月17日(金)~ 7月9日(土)
 
1:00PM~6:00PM/ 休廊 日・月曜日 / 入場無料
 
ブリッツ・ギャラリー
〒153-0064  東京都目黒区下目黒6-20-29  TEL 03-3714-0552
JR目黒駅からバス、目黒消防署下車徒歩3分 / 東急東横線学芸大学下車徒歩15分
 

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