2017年1月18日 (水)

デヴィッド・ボウイのビジュアル・ワーク
アート系ファッション写真との共通性

私は決してボウイ専門家ではないが、学生時代の1978年に武道館で開催されたボウイ日本公演に行ったファンの端くれだ。ここでは、専門のアートとしてファッション写真の見地からボウイを評価してみたい。
まず、"ポップ文化のモナリザ"と評価されることもあるという、1973年のアラジン・セインのカバー写真を見てみよう。
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本作を撮影したブライアン・ダフィーは、ロンドンで当時にはすでに有名ファッション写真家だった。実はこの作品、1973年用に前年に制作されたタイヤメーカー・ピレリの販促用カレンダーとの関わりがあるのだ。写真ファンなら知っていると思うが、ピレリ・カレンダーはその時代の最高の写真家とモデルを起用して制作される販促物。1964年から現在まで長きにわたり継続制作されている。販売用でなくVIPや重要顧客に配布されることから、入手困難なコレクターズ・アイテムになっている。その50年以上の歴史の中で極めて話題性が高かったのは英国人ポップ・アーティストのアレン・ジョーンズ(Allen Jones、1937- )が起用された上記の1973年判なのだ。
彼がデザインとアートディレクションを手掛け、ブライアン・ダフィーが写真撮影、映画"時計じかけのオレンジ"のポスター手掛けたフィリップ・カストルがエアブラシを使用してその二つを合体させて制作したという異例のカレンダーなのだ。ファイン・アートが写真カレンダーの世界を侵略したとも言われた。制作過程でアーティスト間で様々な確執があったことや、発売わずか1か月前に社会に誤解を生む可能性があるとのことで一部写真作品が不採用になったエピソードなどでも知られている。当時アレン・ジョーンズを取り扱っていたマルボロ・ギャラリーは、販促用に無料配布されたカレンダーを求める多くの人々にとり囲まれたそうだ。ボンテージ、フェティシュ系の写真作品は、いま見るとたいしたことはない。しかし70年代としてはかなり斬新かつ挑発的だったようだ。
ピレリー・カレンダー関連の写真集は多数出版されている。興味ある人はアマゾンや洋書店で探してほしい。
 
さてボウイのアラジン・セインだが、全体のアートディレクションはダフィーがボウイと相談の上で行っている。カメラは中判のハッセルブラッド、コダック・エクタロ―ムというリバーサル・フィルムを使用。フィルムの特性上やや青白い仕上がりになっているが、逆にそれがヴィジュアルのシュールな雰囲気を高めている。稲妻のメイクもダフィーの発案。彼はローリングストンーズの1970年に制作された赤い舌のロゴマーク「tongue」を意識したらしい。
メイク自体はピエール・ラロシェが担当、鎖骨の水の滴はピレリ・カレンダーで一緒に仕事をしたフィリップ・カストルによりエアブラシを使用してイメージ上に描かれている。LP内側の見開き部分では、ボウイの全身のイメージが収録されているが、胸から下部分はエアブラシのデザインワークが見て取れる。同様のスタイルはピレリーカレンダー6月の写真にも発見できる。
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英国ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館で開催された"DAVID BOWIE is"展では、メイン・ヴィジュアルに2011年に再発見されたアラジン・セインのセッションでのボウイが目を開いた未使用カットが使用され話題になった。この2枚の大きな違いは、目開きの写真の方には、涙がなくボウイの胸毛が見られることだ。1973年のクラシック・イメージではこの部分はエアブラシで修正され白くなっている。顔の部分も目閉じがやや赤らみ、クラシックはやや白い。たぶんここにも加工がされているのだろう。目開きの写真は、フィリップ・カストルの手が入っていないダフィーによるオリジナル写真なのだ。こちらの方がボウイの肉体の生々しいリアルさが感じられる。実はカストルの匠の技は細かいところまでなされている。クラシック・イメージの目を閉じたボウイのまつ毛のマスカラ部分は彼の手で書き加えられているという。アイラインも描かれているようで、作品を近くから見るとその痕跡が発見できる。
ブリッツで開催中の写真展では2枚が同じ壁面に展示してある。ぜひじっくりと見比べて欲しい。
 
私が最もファッション写真らしく感じるのは、ジュスタン・デ・ヴィルヌーヴが撮影したボウイ初のカバー・アルバム"Pin Ups"(1973年制作)のジャケット写真だ。
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実はそう感じるのも当然、この写真は当初はヴォーグ誌の表紙用に制作されたものだったのだ。写真家のヴィルヌーヴは、ボウイと一緒に写っている元祖スーパーモデルのツイッギーのマネージャーでパートナーだった人物だ。彼は、ロサンゼルスで歌手ピーター・フランプトンがボウイのLPアラジン・セインを持ってきたことでボウイの存在を知る。一部の歌詞にツイッギーを連想させる部分があり、彼はロンドンに帰るとボウイと面会してヴォーグ誌のカバー撮影の提案をしている。ボウイとツイッギーのヴォーグ・カバー案は早々に認められ、撮影はボウイが"Pin Up"のレコーディングを行っているパリで行われた。撮影時のエピソードも面白い。ちょうど、ツイッギーはカリブ海のバハマ帰りで日焼けしていった一方で、ボウイの肌は真っ白だったのだ。そこでメイク・アーティストのピエール・ラロシェが二人の顔に同じ色のマスクを描くことでこの有名作品が完成するのだ。ボウイはテスト用のポラロイド写真をたいへん気にいり、レコーディング中の"Pin Up"のジャケットに使用したいと提案。ヴィルヌーヴは悩んだものの、ボウイのLPは百万以上の販売見込みがあり写真は歴史に残る、一方でヴォーグの発行部数8万で発売後すぐに写真は忘れ去られることを熟考して提案を受け入れたのだ。しかし、彼には二度とヴォーグ誌の仕事の依頼はなかったとのこと。21世紀の現在でも"Pin Up"の写真は多くのボウイ・ファンに愛でられている。彼が1973年に下した判断は正しかったのだ。
ボウイはその時代の才能ある写真家、デザイナーなどのクリエーターを見つけ出して、彼らとコラボレーションすることで自らを作品として提示してきた。結果的に、自らをモデルとしたヴィジュアルは時代の気分や雰囲気を色濃く反映された作品に仕上がっていた。彼の関わった写真をいま多くの人が懐かしく感じるのは、それを通して当時の自分を思い起こしているからに他ならない。
まさにアート作品として認められているファッション写真と同じコミュニケーションが起きているのだ。ボウイの関わったヴィジュアルの変遷を見ると、彼が決してマンネリに陥ることなく、果敢に変化してきた過程がよくわかる。アーティストは、いったん成功するとその体験にとらわれて変化を避けるようになる場合が見られる。そのような人は一発屋としてすぐに消えてしまう。また変化を目的化し、自己満足を追求し奇をてらった表現に陥る人も多くみられる。ボウイのような長年にわたってブランドを確立してきたアーティストは、自分の見立て力を生かして多くの才能を積極的に取り込み、自分のスタイルを作り上げてきたのだ。この点が非常に重要だと考える。
アーティストを目指す人、とくに独りよがりになりがちな若い人には、ボウイのキャリア分析は非常に参考になると思う。ボウイは、自分自身のブランディングに対するヴィジュアルの効果を誰よりも理解していてキャリアを通して最も的確に利用してきたアーティストなのではないだろうか。
"BOWIE:FACES"展と"Duffy Bowie Five Sessions"展は、その軌跡を垣間見ることができる展示になっている。ボウイのファンはもちろん、アート系のファッション写真に興味ある人もぜひ見てほしい写真展だ。
 
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1."BOWIE : FACES"展
1月6日から4月2日までの期間に、代官山蔦屋書店、アクシス・ギャラリー・シンポジア、ブリッツの都内3会場で開催
参加写真家は、ブライアン・ダフィー(Brian Duffy)、テリー・オニール(Terry O'Neill)、
鋤田正義(Masayoshi Sukita)、ジュスタン・デ・ヴィルヌーヴ(Justin de Villeneuve)、
ギスバート・ハイネコート(Gijsbert Hanekroot)、マーカス・クリンコ (Markus Klinko)、
ジェラルド・ファーンリー (Gerald Fearnley)。
 
・オフィシャルサイト
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2.ブライアン・ダフィー写真展
“Duffy/Bowie-Five Sessions”
(ダフィー・ボウイ・ファイブ・セッションズ)
2月5日まで、ブリッツ・ギャラリーで開催
 
本展ではダフィーによる、デヴィッド・ボウイの5シリーズからのベスト作品約18点を展示。
 
参考図書
Duffy Bowie Five Sessions、ACC、 2014
BOWIE:FACES Exhibition Catalogue、2017
The Pirelli Calendar Album、Pavilion、1988

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2016年11月15日 (火)

デヴィッド・ボウイ"The Bowie/Collector" 評価された高い見立て力

"アートは、本当に真剣に、私が心から所有したかった唯一のものだ。それらは私に安定した栄養を与えてくれた。私はそれを利用した。私の朝の感じ方を変えてくれることができた。何を経験しているかによって、まったく同じ作品が全く違う私に変えてくれたのだ"
これはデヴィッド・ボウイのアートに対する姿勢があらわれている、としてよく引用される1998年のニューヨーク・タイムズのインタビューでの発言。下手な和訳で申し訳ありません。
11月10日、ササビーズ・ロンドンで彼の膨大な数のアート・コレクションのオークション"The Bowie/Collector"が開催された。マスコミ報道によるとロンドンで開催されたササビースのオークションで最も多くの入札希望者が登録したとのことだ。ロンドンで開催された内覧会には約5万人が参加、カタログは約2万冊が売れたそうだ。その結果は、予想をはるかに超えていた。356点の作品が全部落札されるホワイト・グローブ・オークションで、トータル売上は事前予想の約3倍の3290万ポンド (約44.41億円)だった。
オークションで最も話題になったのはジャン・ミッシェル・バスキアの2点だ。"Air  Power、1984"が710万ポンド(約9.58億円)、"Untitled、1984"が280万ポンド(約3.78置く円)で落札された。近年のバスキアの再評価の流れと、ボウイ所有という最上の来歴から高額落札が実現したのだ。
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Frank Auerbach" Head of Gerda Boehm, 1965"Sotheby's London
今回のオークションで、ボウイはミュージシャンであるとともに、情熱的かつ真剣なアートコレクターだったことが明らかになった。彼はアートを評価する目を持っていた多彩なアーティストとして新たに認められたのだ。今まで過小評価されていたアートに光を当てる行為は一種の自己表現だと考えられている。実際に彼はキャリアを通して絵画を描いてきた。また1990年代はアート雑誌で文章も書いている。
今回、今まであまり市場で知られたいなかった20世紀英国アートやイタリア・デザインの作品が高額で落札されている点が重要だ。その背景には彼の知名度とともに、その見立て力に対する信頼と評価がある。なんと20世紀の英国人アーティスト11人のオークション最高額落札が記録されたのだ。上記の画像はFrank Auerbachの" Head of Gerda Boehm, 1965"。約378万ポンド(約5.1億円)という、落札予想価格上限の約7.5倍で落札された。
イタリアの建築家・デザイナーのエットレ・ソットサス(Ettore Sottsass)とメンフィス・グループのデザイン関連の出品作などは、軒並み落札予想価格の何10倍で落札。ステレオ・キャビネットの"Achille and Pier Giacomo Castiglioni RADIO-PHONOGRAPH, MODEL NO. RR126"は落札予想価格上限1200ポンドの約200倍を超える25.7万ポンドで落札。また赤色のオリベッティー製で1969年デザインの"Ettore Sottsass and Perry King、Valentine"タイプライターは、落札予想価格上限500ポンドの約90倍の4.5万ポンドで落札されている。
ササビースは、特にデザイン関連の出品作に関してはボウイの見立て力を過小評価していたといえるだろう。今後、同オークションで落札されたアートやデザインの関連作品はボウイ見立て品という輝かしい来歴を持つことになるだろう。

さてデヴィッド・ボウイといえば、2017年1月8日からは、英国ヴィクトリア&アルバート美術館企画による"David Bowie is"の巡回展が、東京のテラダ倉庫GIビルディングで開催される。同展は、いままでに世界中を巡回し8会場で約150万人の来場者を動員したという。ちょうど1月8日は、彼が生きていれば70歳の誕生日、1月10日はボウイ1周忌に当たる。新年の日本はボウイ関連の話題で持ちきりになるだろう。

Bowiefaces
Terry O'Neill/ Iconic Images
実は、私どもは同美術館展に作品を提供している、テリー・オニール、ブライアン・ダフィーなどを日本・アジアで取り扱うギャラリーでもある。それに合わせて、テリー・オニール(Terry O’Neill)、ブライアン・ダフィー(Brian Duffy)、鋤田正義(Masayoshi Sukita)、ジュスタン・デ・ヴィルヌーブ(Justin de Villeneuve)、マーカス・クリンコ (Markus Klinko) 、ギスバート・ハイネコート(Gijsbert Hanekroot)による、"Bowie : Faces"展を開催する。
開催場所は、代官山 蔦屋書店 2017年1月6日(金)~2月7日(火)、アクシスギャラリー・シンポジア 2月10日~11日、ブリッツ・ギャラリー 2月17日(金)~4月2日(日)を予定している。
また、ブリッツではブライアン・ダフィー(Brian Duffy / 1933-2010)の写真展「Duffy/Bowie-Five Sessions」(ダフィー・ボウイ・ファイブ・セッションズ)を2017年1月に開催する。「David Bowie is」では、メイン・ヴィジュアルにダフィーによるアラジン・セインのセッションで撮影されたボウイが目を開いたアザーカットが使用され話題になっている。これらの展示を通しては、ボウイのヴィジュアル・アートへ与えた多大な影響の軌跡を見てもらいたい。
(為替レート/1ポンド・135円で換算)

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2016年11月 8日 (火)

オークション・セールの最前線
キュレーション力が問われる時代

いままで各オークション業者は、アート写真を売るために多くの優れた作品を集め、写真史を意識しての作品提示に力を注いできた。これは作品のエディティングなどと呼ばれていた。取り扱いが20世紀写真だけの時代はそんなに難しいことではなく歴史の流れに沿って、ばらつきなく並べればよかった。20世紀の写真オークションはまさに写真史が反映されていた。オークションの下見会は下手な写真展よりも歴史的な名作を一堂に目にすることができたものだ。
90年代になりファッションやドキュメントがアートとして認められ、さらに21世紀になると現代アート分野の写真も登場してくる。オークションの出品作品のエディティングはどんどん複雑化してくるのだ。
2010年代になると、作品供給面でも壁にぶつかることになる。優れた作品の委託獲得が困難になるのだ。特に19世紀から20世紀初頭の名作写真は、ほとんどが美術館や有名コレクションの所蔵となり市場出品数が非常に少なくなった。
また、オークションに参加する顧客層も変化した。いままで写真を買っていたのはある程度の経験と知識を持つ中間層のマニア的コレクターが中心だった。彼らは自らの眼でアート史で過小評価されていたカテゴリーやアーティストを見つけ出していた。彼らの活動によりアート写真の価値観が多様化してきたともいえる。
それが急拡大した現代アート市場がアート写真を飲み込んでしまい、主要な客層が変化する。オークション参加者の中で経験や知識が蓄積されていない富裕層の比率が大幅に高まっていったのだ。またグローバル経済の進行により、従来の中間層コレクターの勢いがなくなっていく。
このような状況でオークションハウスには、作品の"見立て"と"提案力"が求められるようになってきた。いままで誰も気づかなかった視点で写真史や写真家を評価して新たな価値を創出し提案するということだ。アート写真オークションのセレクトショップ化ともいえるだろう。オークションの落札結果は、業者のキュレーション力の優劣により大きく左右されるようになってきた。当然それは人的能力により違いがでてくる。優秀な人材が豊富な大手が圧倒的に有利になる。
そのような状況が明確に見られたのは今秋にロンドンで行われたフィリップスとDreweatts & Bloomsburyのアート写真オークションだろう。

 

Phillips
Phillips London Catalogue
 
フィリップスは大手の中でも極めて明確にオークションのいままでの流れに新しい輪郭を作り上げようというキュレーションの意志が感じられる。複数の委託者の作品を集めるのが一般的の中で、作品のテイストが同じになる単一コレクションを積極的に導入したり、ULTIMATEという新セクションを構築し、様々なカテゴリーの作品からフィリップスのオークションでしか買えない作品を集めて毎回提示している。

オークションの格は、どれだけ過去の出品歴が少ない高額落札が期待できる有名作をメイン作品に採用できるかで決まってくる。今回、フリップスが持ってきたのはドイツのベッヒャー派の最重要人物の一人のトーマス・シュトルートの美術館シリーズから出品。90年にコレクションされてからずっと収蔵されていた逸品だ本作は、何と落札予想価格の上限の約4倍の、63.5万ポンド(約8572万円)で落札された。

またアーヴィング・ペン、リチャード・アヴェドン、ウィリアム・エグルストン、アニー・リーボビッツ、ニック・ナイトなどを持つGeorges Bermannコレクションを紹介。全体で89%という非常に高い落札率だった。特にウィリアム・エグルストンの"Untitled 1971-1974"は、落札予想価格の上限の約2倍を超える、19.7万ポンド(約2659円)で落札された。これは2012年に制作された 80.8 x 121.8 cm サイズのピグメント・プリント作品だ。リチャード・アヴェドンの"Blue Cloud Wright, slaughterhouse worker, Omaha, Nebraska, August 10, 1979"落札予想価格の上限の約2倍の、16.1万ポンド(約2173万円)で落札されている。
またフランス人コレクター所蔵の珍しい南アメリカ写真12点のオークションにも挑戦。こちらも12点中10点が落札されていた。
ULTIMATEでも、ヴォーグ誌のエクゼクティブ・ファッション・エディターを長年勤めるピュリス・ポゾニック(Phyllis Posnick)に焦点を当てている。今秋に刊行される"Stoppers: Photographs from My Life at Vogue"とのコラボ企画が実現。"stopper"とはヴォーグ誌の伝説的なアート・ディレクターのアレクサンダー・リーバーマンがアーヴィング・ペンの写真を表現したもの。彼の写真を見た人は、その際立った魅力で急に立ち止まらされる、という意味。アービング・ペンの"Bee on Lips, 1995"をはじめ、スティーブン・クライン、パトリック・デマルシェリエ、ティム・ウォーカー、マリオ・テスティノという5名の超有名写真家のアートになり得るファッション写真をセレクションしている。今秋はファッション系はあまり元気がなかったが、今回の全作品は落札予想価格内で見事に落札された。全体の結果は最近のオークションでは異例の76.3%という高い落札率を記録した。総売上高も、予想落札価格上限合計額を超える274万ポンド(約3.69億円)だった。
 
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Dreweatts & Bloomsbury Catalogue
一方、Dreweatts & Bloomsburyロンドンで行われた低価格帯作品中心262点の"Fine Photographs"オークションは総売上高14.1万ポンド(約1903万円)、落札率36%という対照的な結果だった。知名度の低い英国や欧州の写真家が多かったことが一番影響していると考えられる。
またこのオークションは20世紀から続く複数委託者の作品を並べるだけの従来型のもので、特に専門家によるキュレーションが積極的に行われた形跡はない。このような状況はかつては一般的で、従来は地元のシリアスなコレクターやディーラーが積極的に入札していた。やはり英国経済の先行きの不透明さからだろうか、どうも彼らはあまり積極的ではないようだ。
ただし世界的に美術館がコレクションするジュリア・マーガレット・キャメロンは、出品された4点がすべて落札予想価格を超える価格で落札されていた。また世界的に人気のあるセレブのアイコン的なポートレートも確実に落札されていた。これらはポンド安を享受している英国外からの入札ではないだろうか。
 
今週はパリ・フォトに合わせて、パリでクリスティーズとササビーズのオークションが、また12月かけて欧米の中小業者のオークションも開催される予定だ。2016年アート写真オークション・シーズンはいよいよ終盤を迎えつつある。
(為替 1ポンド/135円で換算)
 

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2016年8月30日 (火)

アート写真市場レビュー
2016年前半を振り返る

まだ夏休みが続いているが、海外ではこの時期に業務から撤退するギャラリーや関連業者も多い。つまり秋になっても休みが続いているのだ。ギャラリーは個人経営が多いので倒産はない。アート・シーンから知らぬ間に消えていくのだ。
ドン・トンプソン氏のアート業界を分析した著書"The $12 Million Stuffed Shark"によると、裕福なスポンサーのない現代アート・ギャラリーの4/5は5年以内に撤退し、5年以上継続しているギャラリーの10%が毎年廃業しているという。アート関連業務の運営には多額のコストがかかる。売上の見通しが立たないとすぐに撤退を余儀なくされるのだ。
最近はギャラリー以外でも、オンラインでのアート販売を目指すベンチャーのネット関連業者もすぐに撤退する。特にマンハッタンやロンドンなどは家賃が高く、冷徹に市場原理が働く場所なので、非常に新陳代謝が激しいのだ。今年の前半のアート市場を振り返るに、どうも永遠に夏休みが続く業者が多いような予感がする。

2016年の前半のアート・オークションの決算が発表されはじめている。クリスティーズは、前期の売り上げは約30億ドルで、前年同月比で約33%減少。特にコンテンポラリー・アート部門の売り上げが約45%も減少しているという。ライバルのササビーズの売り上げも同様に減少している。これらの要因として指摘されているのが、市場の不安定要因から委託者が希少作品の出品を見合わせている状況だ。欧米での売り上げが低下している中で、中国関連のみの売り上げが上昇している。Artpriceによるとこの地域は約18%の上昇とのこと。色々な分析が行われているが、これは中国景気が他地域よりも良いという訳ではないらしい。どうも長期的な景気低迷と為替下落傾向を予想して、富裕層の資産が香港などを通してアートなどのオフショアの実物資産に移されているからだそうだ。

アート写真市場は昨年秋から明らかな変調が見られるようになってきた。私どもがフォローしている中小を含む欧米のオークション売り上げは、2016年前半は前年同月比で約2.5%増加した。しかし2061年前期には特殊要因がある。例年は閑散期の2月17~18日にクリスティーズ・ニューヨークで"MODERN VISIONS (EXEPTIONAL PHOTOGRAPHS)"という、貴重なヴィンテージ作品が目白押しの大注目のオークションが開催されたのだ。イーブニング・セールとデイ・セールにわかれて279点が入札され、252点が落札。なんと落札率は驚異的な90.32%トータルの売り上げは、なんと最近では珍しい落札予想価格上限の約800万ドル(約9.2億円)を超え、約889万ドル(@115/約10.2億円)を記録した。同オークションを除くと、売り上げは前年同月比で約23%減少している。前半の平均落札率は約64%、ほぼ2015年通年の63%と同じレベルだった。しかし出品作品の1/3は落札されないのだ。オークションの世界では35%以上の不落札率(落札率65%以下)は危険水域といわれている。特に低価格帯の不落札率が高くなっている。
中間から高額価格帯を中心に取り扱うニューヨークでの大手3社の結果だけを比べると、売り上げは前年同期比で約32%減少している。昨秋と比べると約17%増加しているものの、これはリーマンショック後の2009年春を除くと、ほぼ2004年秋のレベルとなる。直近のピークは2013年春で、同期と比べると約61%減だ。平均落札率はかろうじて危険水域以上の67.8%に踏みとどまっている。ちなみに2013年春は81.8%だった。
このような状況では、オークション業者は落札予想価格の下方への変更を行ってくる。日本の顧客には昨今の円高傾向によりさらに割安感がでてくるといえるだろう。為替のドル円が120円を超えていた2015年と比べると、約10~20%程度は購入コストが安くなると思う。興味ある人はぜひ相談してほしい。
秋の大手業者のニューヨーク定例アート写真オークションは、クリスティーズ"Photographs"10月4日~5日、フィリップス"Photographs" 10月5日~6日、ササビーズ"Photographs"10月7日の予定で開催される。

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2016年7月19日 (火)

2000年代の洋書写真集ブームを振り返る
なぜコレクションは定着しなかったのか?

Parcoevent
レアブックコレクション 2008年& 2009年のDM

2000年代の日本では、洋書写真集のコレクションがミニ・ブームだった。
私どもも2004年から6年間に渡り、毎年5月の連休明けに絶版写真集や貴重本約150~200冊を販売する「レアブック・コレクション」というイベントを、渋谷パルコのロゴスギャラリー(現在は閉廊)で企画開催していた。同ギャラリーは洋書販売の洋書ロゴスの横にあるパルコ主催のイベントスペースで、新刊とレアブックの相乗効果を狙った企画だった。2週間の会期で毎年それなりの売り上げを達成していた。この期間中は洋書写真集がブームだったことは明らかだろう。

いま思い返すに、このブームのきっかけはネット普及によりアマゾンで洋書がかなり割安で購入できるようになったからだと分析している。90年代、洋書店で売られていた写真集は高額の高級品だった。よく雑誌のインテリア特集のページ内でお洒落な小物として使用されていた。私は約30年くらい洋書を買っているが、かつてのニューヨーク出張ではスーツケースの持ち手が破損するくらい膨大な数の重い写真集を持ち帰ったものだ。

アマゾンの登場は衝撃だった。とにかく重い写真集が送料込みで、ほぼ現地価格で入手可能になったのだ。最初は欧米のアマゾンでの購入だったが、2000年11月に日本語サイト"amazon.co.jp"が登場して日本の一般客も今まで高価だった洋書写真集がほぼ現地価格で購入可能になったのだ。2008年のリーマン・ショックまで続いたブームは、高価で高級品だった洋書写真集が信じられないような低価格で買えるようになったから起きたのではないか。一種のバブルだったのだ。今まで高額だったカジュアルウェアをユニクロが高機能かつ低価格で発売してブームになったのと同じような現象ではないか。時間経過とともに、洋書が安く買えるという驚きがさめ、低価格が一般化し始めたころにリーマンショックが起きたのだ。アート系商品は、心は豊かにするが、お腹を満たしてくれない不要不急の際たるものだ。それ以降は、本当にアート写真が趣味の人が興味を持つ写真家の本を購入するという従来のパターンに戻ったのだ。2010年代には、アベノミクスによる円安で輸入価格が上昇して、景気の長期低迷とともに市場規模は縮小均衡してしまった。

ブームが過ぎ去ったもう一つの理由は、写真集コレクションの本質が多くの人に理解されなかったからだろう。自分の感覚にあったビジュアルが収録されているお洒落な商品として本を買う傾向が強かったのだ。欧米では、アート写真コレクションの一分野として写真集の一分野のフォトブックが存在している。写真集とフォトブックとの違いは色々なところで解説しているので今回は触れない。さてコレクションとは高度な知的遊戯として一面を持つのだ。フォトブックはアーティストがメッセージを発信して、読者とコミュニケーションを図ろうとするもの。そのメッセージを理解するためには、読者も経験を積みアートの歴史を勉強して理解力を高めることが必要になる。ただ単に写真を見て、好き嫌いを表明することではないのだ。そしてアーティストの写真作品が評価されるのとまったく同じ構図で、フォトブックで表現されているオリジナリティーは写真史やアート史との比較、デザイン性や印刷のクオリティーなどが加味されて総合的に判断されていく。読者は、いわゆるアート写真リテラシーが高まることで、いままで見えなかったアーティストの訴えようとする時代の価値観が理解できるようになる。それを通じて自分自身をより良く理解できるようになる行為なのだ。知的好奇心を満たし、かつ自分を高めてくれる手段として取り組むことができれば、フォトブックのコレクションはライフワークとなる。
よく考えてみれば、日本では写真自体もあまりアート作品として理解されていない。デザイン感覚で評価する、アマチュアが趣味で撮影する、家族や友人間でコミュニケーションを図るツールとして認識されている。写真集の一種のフォトブックは、編集者やデザイナーが関わるので、アート作品とはより理解されにくい事情もあったのだろう。

 
その中で、唯一だが多少浸透してきたと思われるのは、フォトブックの持つ資産性だろう。アート・コレクションの対象ということは、良いものを買っておけば価値も上がるということ。値段はオリジナルプリントよりも安いもののフォトブックにも当てはまるのだ。実際に2000年代に発売されたものの中で、テリ・ワイフェンバック、マイケル・デウィック、ウィリアム・エグルストンや現代アート系アーティストのフォトブックは直ぐに完売して、古書市場で相場が上昇した。フォトブック・コレクションのきっかけを作った、アンドリュー・ロス作の、歴史的写真集のガイドブック「The Book of 101 Books」(2001年刊)自体もレア・ブックになっている。しかし、現実では短期的に完売して相場が上昇するのはごく稀に起こる現象だ。一方で新刊を良いと判断して買ったものの、洋書店のバーゲンセールで同じものを発見して落胆したという話もよく聞く。本当の評価は写真家が亡くなった後になって確定してくる。短期的な相場の上下に一喜一憂するべきではない。少なくとも洋書写真集ブームを経験したことで、フォトブックは資産価値をもつ可能性があるという事実は浸透しつつあるようだ。

現状分析をしてみよう。一時のブームは過ぎ去り、洋書店の数は激減し、様々な規模のオンライン・ブックショップが販売の中心になった。継続している洋書店や独立系オンライ・ブックショップは、価格でアマゾンに勝てないことからマニアックな写真集の取り扱いが中心になってしまった。それらは経験豊富な読者向けだ、一般の人にはかなり難解だろう。一方で、アマゾンで売られる洋書フォトブックは、明らかに情報過多の状況に陥っている。情報の整理整頓が全く行われていないのだ。私どもがアート・フォト・サイトで心がけているのは、そのようなマス・スケールで売られているフォトブックの宇宙の中からのお薦めのタイトルをセレクションしてテーマ性を解説することだ。フォトブック・コレクションには、本当に幅広い分野やカテゴリーが存在する。初心者のために、興味のある分野を見つけ出すきっかけ作りを目指しているのだ。

さて今週21日から「ブリッツ・フォトブック・コレクション・2016」が始まる。上記のような分析を行いつつ何で開催するのかというツッコミもあるだろう。実は数は多くはないものの、フォトブックの真の魅力に気付いた人は確実に増加していると考えているのだ。コレクションに興味を持つ人は、フォトブック・ガイドに掲載された絶版のレアブックにも高い関心を持っている。しかし、現状ではそれらの現物を見る機会は非常に少ないといえるだろう。同展は、そのような少数の人たちへの情報提供と啓蒙活動の一環だと考えて密かに開催する。かなりマニアックな品揃えになりそうだ。夏休み中なので、今回は日曜日を営業。フォトブックが面白いと感じ始めた人は、ぜひ立ち寄って欲しい。
 
「ブリッツ・フォトブック・コレクション 2016」
会期:7月21日(木)~ 8月7日(日)
休廊:月、火、水曜日
営業時間:午後1時~6時
 
夏休み企画として、国内外の貴重な絶版写真集、入手困難な限定写真集、
プリント付写真集を紹介するフォトブック・コレクション展を開催。
ギャラリー・コレクションからファッション写真などを中心に、珠玉の
オリジナル・プリント約22点が会場の壁面に展示される。
 
・レアブックス、絶版写真集
・オリジナル・プリント付写真集
・サイン入り写真集
・マイケル・デウィック"The End:Montauk NY"の改訂・普及版を日本初公開
・オリジナル・プリントの展示
 
・プレスリリース、画像資料は以下でご覧いただけます。
 

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2016年4月19日 (火)

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップな
マージナル・フォトグラフィー(6)
写真の見立て方を考える

いままで写真の新しい楽しみ方として、限界芸術と民藝の写真版であるクール・ポップ写真を紹介してきた。過去5回ほど書き続けながら考え方を展開してきた。興味ある人はぜひ読んでみてほしい。これは、写真家が雑念を捨てて撮影した作品と、買う側、評価する側の"見立て"がセットとになって成立する。今回は写真の"見立て"サイドを掘り下げていきたい。
 
欧米のギャラリー店頭では、作品テーマ、ヴィジュアル面の優劣、写真家の将来性、海外での評判などがセールストークとして語られる。そこには写真は資産価値を持ち、将来的に価値が上昇する可能性を持つものだ、という大きな前提がある。実際に優れた写真作品の市場価値は歴史的に上昇してきた。日本のギャラリーでも、欧米同様のセールストークが行われてきた。しかし日本では写真家のアート市場での成功例が非常に少ないので、前提となる写真の資産価値を誰も信じていない。私はこれが日本で写真が売れない理由の一つだと考えている。
 
日本でも、海外の延長上に資産価値を持つ作品の市場は存在する。しかし、残念ながら多くの日本人写真家はその範囲外にいる。ぜひその分野に果敢に挑戦して欲しい。
一方で、まったく別に日本独自の価値基準を構築しようというのが私が行っている主張。一般の人が写真を評価して買うときに、表層的な業者情報に頼ることなく自らが能動的に写真に接して見立てればどうかというものだ。写真の新しい楽しみ方、買い方の提案なのだ。
実は見立てには、様々な項目に対するものが重層的に存在する。今まで色々な人たちに、この新分野の啓蒙活動を行ってきたが、私の印象では作品に潜むテーマ性の見立ての理解が一番難しいようだった。ここの部分は、見立てる側のアート写真リテラシーの高さが求められる。これができる人は制作する側にも、見立てる側にも少ないのが現実だ。それゆえに日本では写真がアートとして認知されないともいえるだろう。広く浸透していくには継続的な啓蒙活動が必要でかなり時間がかることが想定される。これでは、写真界に潜在的に存在しているクール・ポップ写真はなかなか発見されないだろう。
最近は見立てには様々な難易度を持つ段階があり、まずはもっと敷居の低いところからスタートしていいのではないかと考えている。 一般の人は、テーマ性の見立ての前に、まず作品が無意識の上で制作されているかを見極めればよい。これは作家の"作品制作意図の見立て"と呼ぼう。作品が写真家のエゴで作られたのか、それとも自分を無にして作られたのかということだ。複雑に絡み合った社会で生きる人間がそのような精神状態で作品を作り上げるのは簡単ではない。テーマ性はいったん置いておいて、まずはその点を評価するのだ。邪念を持たないアマチュアの中に、このような優れた作品を制作する写真家が見つかることが多い。
もう少し具体的に説明しよう。
デザインやテクニック重視で制作された写真に惑わされないことが重要だ。写真家が何かを感じて撮影しているかを重視するのだ。また見立ては、ここで終わりではないとも考えている。どの写真を選んで、額装するのかフォトフレームに入れるのかなど、展示方法を考える"設えの見立て"、それがどのようなスペースに合うのかまでを考える、"空間取り合わせの見立て"がある。最初に展示場所があって、写真セレクションと設えを考えても良い。このような過程は写真を素材とした見立てる側による総合的な自己表現でもあるのだ。日本で真に写真が売れるには、欧米とは全く違う上記のような買う側と写真との関係性が構築され、定着しなければならないと考える。ここまでが見立ての第1段階だ。自分のライフスタイルを意識して、その一環としてカジュアルに行えばよいと考えている。
 
ほとんどの写真は一人や少数の人の見立てでで終始するだろう。しかし、もし複数の人が認めるようになれば、第2段階の"テーマ性の見立て"へと展開していく。優れた作品ならば結果的に複数の人が見立てることになるはず。またエゴが消えて作品制作に取り組めるまでの過程には、社会との何らかの関係性があるはずだ。この段階では作品の社会との関わりのあるテーマ性が発見される可能性が出てくる。結果的に写真家のブランドが構築され、値段も上昇すると想定している。日本の写真界を見渡すと現在の人気写真家はこのような過程を経て評価されてきたと感じている。

世の中には、写真撮影しない写真の楽しみ方があるのだ。他人が撮影した写真を、上記のような"作品制作意図の見立て"、"設えの見立て"、"空間取り合わせの見立て"を行うことでも可能なのだ。作家の作品でなくても、フォウンド・フォト(作者不詳の古写真)でも見立ては可能だろう。これらの行為はある種の写真での自己表現にもつながる。
写真を撮らない写真趣味が浸透することで、日本でも真に写真が売れるようになるのではないか。そして、見立ての勉強と経験を積むことで、間違いなく写真が上手くなる。その場の考えや思いつきだけではない、より能動的な写真撮影ができるようになるからだ。

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2016年3月 1日 (火)

変貌する目黒インテリア・ストリート
ライフスタイル系消費とアート写真

ブリッツはインテリア・ストリートなどと呼ばれる家具関連ショップが多い目黒通りの近くにある。同じく小売に関わる業者として街の日々の変化を常に観察している。
約15年くらいこの地にいるが、最近はショップの入れ替わりが激しくなってきた印象が強い。特に今年になって、雑誌などでよく紹介されていた複数の有名店がいつの間にか移転していた。
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目黒インテリアストリートの風景(イメージ)
このところの状況を素人視線から分析してみるに、新品家具を取り扱うショップが少なくなり、中古のブランド家具専門店、一般の中古家具を扱うショップ、既製品でない手作り家具を取り扱うショップなどが増えている印象だ。取り扱われているスタイルは、アンティーク、モダン・アンティーク、ミッドセンチュリー、北欧デザイン、などとより多様化している。
視点を変えると、有名ブランドや大量生産の新品家具はアウトで、オーダー家具、手作り家具、中古家具は生き残っている印象だ。ほとんどが家具だけではなく、国内、欧州、米国のアンティーク、ヴィンテージ、骨董、古道具などの雑貨・小物、洋服類を総合的に扱うショップに変貌している。カフェも専門店は減少しているが、併設ショップは増加中だ。
 
私はマーケティングのコンサルタントでもないので、専門的な答えが出せるとは思えないが、このような変化の要因について自分なりに考えてみた。
まず上質な、自分好みの、選び抜かれたモノの中で暮らすという考えが浸透してきたようだ。これはライフスタイル系消費ということで、実際的には消費に疲れた富裕層が質の高い生活を求める場合と、収入が増えない中で充実した暮らしを求めるケースがある。多くの人はその中間に位置するだろう。
ライフスタイル系消費の人は特に新品にこだわらない。大量生産の既成品よりも、古くても個性的な家具や商品を求める傾向もある。これらは価格も比較的的安い。不況による若年層の厳しい懐事情も反映されているだろう。また販売業者にとっても中古品の方が利幅が大きいので取り扱いやすいだろう。
ライフスタイル系では、消費者の個別の商品の見立てと空間での取り合わせの能力が求められる。今までの日本、たぶん団塊から新人類世代くらいまでは、モノを全体でコーディネートする視点がなかった。ただ新品か、有名ブランドかで買い揃えてきたので、生活空間には複数のスタイルが混在していた。昭和のカオス的なインテリアを思い浮かべてほしい。その状況がどうも変化しているようだ。
今の若い世代は子供の頃から、自分で商品を選んで買ってきた。昔は、選択肢もなかったし親が買い与えている場合が多かった。いまは自分の好みのスタイルを意識する人が増え、それに合わせて家具や雑貨類を綿密にこだわって選んでいるのだ。
最近の目黒通り界隈のショップの変化は、このようなライフスタイル系消費の浸透が反映された結果なのではないか。彼らには、自分好みの商品を時間をかけて楽しみながら見て回れる回遊エリアになっているのだろう。
 
ブリッツがこの地に出店したのは、家具購入者はその延長上にアート写真を買うのではないかという発想からだった。実際、2000年代からリーマンショック前までは、同じ発想でアート作品を壁面に展示販売していたショップも存在していた。
私どもの店頭でも、都市伝説のような、自分へのご褒美でアート写真や写真集を買う若いビジネスマンや女性客が少なからず存在していた。いま思うに壁面に飾られた本物のアート作品の提案は典型的な「モノ」消費であり、ステータス消費だった。
現在は、家具ショップでの写真展示は額装した印刷物や、ポスターがほとんどだ。かつてはそれらを本物ではないと蔑視していたが、最近はどうも違うのではないかと考えるようになった。壁面に飾る写真が本物でなくても、優れた見立てと、取り合わせができると、心地よい空間創出は可能ということ。それができる人が実際に増えているようなのだ。ライフスタイル系消費が進行してくると本物というだけではアート写真は売れなくなる予感がする。もしかしたら、そんな状況は始まっているのかもしれない。実際にいまの日本では、写真はオリジナルを買うものではなく、撮影して自らが楽しみ、また家族や友人とコミュニケーションを図るものになっている。
ギャラリーの商売も、資産価値のある作品へのコレクターからの需要が中心。若手・新人は安いのでそこそこ売れるが、それ以外の中途半端な価格帯の作品の動きは非常に鈍い。
欧米では、写真は買いやすい価格帯の民主的アートだと認識されている。日本でも同じように一般の人が写真を普通に買うようになるとギャラリー関係者は考えていた。どうもその目論見は想定していた通りには進行してないようだ。

グローバル経済進展やIT革命による中間層の減少で、もはや先進国では消費ブームは期待できないという経済専門家の指摘もよく聞かれる。その大きなうねりがついに日本にも訪れつつある。ライフスタイル系消費とも本質が重なるのだが、いま人々がものをあまり買わない生活に向かっているといわれる。かつてはシンプルライフがあったが、最近は更に過激化して最小限のもので生活する断捨離やミニマリストも増加しているという。

最近のこのような消費状況は、単なるトレンドではなく、もっと大きな社会経済的な変動がその背景にあるかもしれないとも感じている。
日々複雑化するこの状況の中でアート・ギャラリーはどのように対応していくべきか、目黒通りのショップの移り変わりを横目に色々と考えている。
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最近はライフスタイル系ショップが増加



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2016年2月 9日 (火)

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(5)

新しい日本の新ジャンルのアート写真の可能性について、いままで4回にわたって説明してきた。興味ある人はぜひ過去のブログを一読してほしい。
自ら読み返してもかなり複雑なので、ここで簡単にまとめておこう。今回は新たに気付いた点も加えている。考えが日々進歩しているので、いままでの主張と多少の矛盾点があってもご容赦いただきたい。今後も変わるかもしれないが、最新のものが最善の考え方だと理解して欲しい。

いまのプロ写真のカテゴリーは、大きく分けると、制作者のオリジナルな創造性を愛でるファイン・アート系と、実用的なデザインやインテリアを重視した応用芸術系とがある。
ファイン・アートは元々は欧米から輸入された概念であり、日本では感覚やデザイン性の追求が広くアート行為と考えられている。写真もファイン・アートというよりも応用芸術系が中心になっている。しかし、それらのなかに単なる感覚やデザインではとらえきれない優れた作家性を持つ写真家も数多く存在している。私どもはそれらの写真は、前記2種類の中間カテゴリーに位置するクール・ポップ写真として区別しようと主張している。

これは単なる思いつきではなく、日本の美術・文化史とつながりも見出すことが可能だ。鶴見俊輔が「限界芸術論」で主張した限界芸術の写真版(マージナル・フォトグラフィー)であり、柳宗悦が提唱した民藝の写真版とも拡大解釈可能だろう。民藝は観光地で売られている大量生産の工業生産の土産品の意味ではないので注意してほしい。
また夏目漱石がエッセー「素人と黒人」で述べている、素人にも近いと理解している(「黒人」は今日の表記では「玄人」)。ここでは詳しく触れないが、同文で彼は世間一般のアーティスト像を批判。専門家だと考えられている「黒人」は、表層的で局所的な技巧を追求する職人だとし。「素人」こそが自己に真面目に表現の欲求があり、全く新しいことを創り出す真のアーティストだと主張している。

この新しい分野で重要なのは「表現の欲求」、つまりどうしても世の中に写真を通して伝えたい真摯かつ強い要求を持つ人であること。世の中の評価、名声、お金儲けなどへの一切の執着がなく、写真に関わる、撮影、展示、写真集化などが社会とのコミュニケーションのツールになっている人だ。
彼らをアーティストと呼ぶとすると、その意味も既存のものとは違ってくる。それは、ライフワークとして写真表現で社会に能動的に対峙している人になる。ファイン・アート系のように、社会と関わるテーマやアイデア、コンセプトを紡ぎだして提示する必要はない。また、アート作品を発表して販売して生計を立てるような職業ではなく、生き方そのものになる。実際的には、何らか別の手段で生活費を稼ぎながら写真を撮影し続けている人で、それには商業写真家やアマチュア写真家も含まれる。また20世紀のファインアート写真が追求した、モノクロームやカラーによる抽象的な美しさや、ファインプリントの高い品質を追求する職人的な人も含まれる。写真のデジタル化で失われた手作業的な部分を取り戻そうとしている人だ。

彼らはどのように評価され、見出されるのか?それらは第三者による見立てによる。第三者の評価を嫌い、自らがテーマやコンセプトを語る場合、彼らはファインアート系を目指す写真家となる。また自らの感覚、デザイン・グラフィック性、テクニックを追求する場合は、販売目的のインテリア系となる。
実際のところ、世の中で撮影される多くの写真は、アート性やインテリアとの相性を意識しているわけではない。クール・ポップ写真では、上記のいずれにも属さない写真作品の中から、前記の「限界芸術」、「民藝」、漱石の指摘する「素人」の流れを踏まえながら、写真作品に内在する社会と関わるテーマ性と、背景にある「表現の欲求」が見出されるわけだ。

つまり、見立てる側の持つ、世界観、哲学、視点などから勝手に写真を評価する。繰り返しになるが、感覚、デザイン・グラフィック性、テクニックも評価基準の一部にすぎない。それ自体が目的となると別のカテゴリーの写真になる。

クール・ポップ写真はどのような経緯を経て展開していくのだろうか?
まず、この新カテゴリー写真の考え方と、見立ての行為を世の中に広めなくてはならない。これが普及の第1ステージだ。見立てる行為は、ギャラリスト、ディーラー、評論家以外でも、社会と能動的に生きている人ならだれでもできる。見立てる人はアーティスト同様に、自分の行為を写真家や世の中に評価されることを目指してはだめだ。周りの反応を気にせず、一方的に見立てることになる。フィーリングやデザイン的などの表層部分だけではわかりにくい作家の独自の視点を発見して、言葉にして提示する。それを通して、知的好奇心を満たし、社会とのコミュニケーションが持つ可能性が出てくるのだ。これは写真を撮影しない、コレクションしない、写真の読み解き方を楽しむという新しい写真の楽しみ方になる。 具体的な普及方法はいま色々と思案中だ。

もし広くこの考えが認識されてくると最初の目的から離れて日本独自の新しいカテゴリーの写真売買の市場に展開していく可能性があると考える。これが普及の第2ステージだ。第三者による作品の見立てやその行為自体は目的ではない。しかし、優れた人の作品が継続的に見立てられれば、それに共感する人が出現するかもしれない。また作品を複数の人が評価する状況が生まれる可能性がある。結果的にそこに価値が生まれるかもしれないのだ。見立てる側の持つ視点が情報として評価され、一般の人がそれを参考にして、作品評価、販売、コレクションにつながる可能性がでてくる。その積み重ねにより、本人の意図とは別に写真家や作品のブランド化が図られるようになる。もともと日本の有名写真家のブランドはそのように構築された場合が多い。

当初の販売価格はどのようなレベルになるのか。新人や若手は現代陶芸作家の器の価格に近くなるとイメージしている。しかし写真には陶芸と違い用の美はないので陶芸作家制作の器よりも安くなるべきだろう。最初はオープンエディションのインテリア系写真と同じレベルからスタートではないか。安すぎると考える写真家は、いままでのようにファイン・アート系やインテリア系のキャリアを目指せばよい。インテリア用も高額な値段がついた写真は数多く存在している。クール・ポップの写真家は販売目的で制作してないので原価計算は関係ない。実際上は手取り額が制作コスト以下にはならないレベルからだろう。しかし、もし写真家がブランド化していけば、需給関係から価格も上昇していくことになるわけだ。しかし、ある程度のキャリアや知名度を持つ写真家が見立てられる場合は、新人や若手より高めの販売価格になると考えている。

作品を販売するのは、それらを見立てる人、評価できる人となる。まだ具体的なヴィジョンは描けてないが、ギャラリーやディーラーになるだろうか?しかし、ギャラリーはビジネスなので、セカンダリー作品のディーリングなどの他分野の仕事で利益を上げている必要がある。 日本には、企業がスポンサーのギャラリーが多いが、それらには向いているだろう。

現在進行形で幅広く情報収集を行い、アート史との関連などを研究している。考え方の基本的な部分はある程度固まってきた。そろそろできるだけ多くの人と意見交換して、基本的考えの問題点や矛盾点などを明らかにしたい。近日中にセミナーなどを開催したいと考えている。
 

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2016年1月19日 (火)

2015年の日本マーケットを振り返る
市場の二極化が進行する

昨年は、日本で写真をアート作品として売ることの難しさを改めて実感させられた1年だったといえよう。アート写真市場の本格的立ち上がりを前提に行われてきた様々な試みが修正を迫られた。

まず2014年まで6回連続して行われていた東京フォト。私の知る限り、2015年は開催されなかった。日本は世界でも有数の経済大国で、写真市場が存在するはずと海外の関係者は考えていた。日本で開催される各種のアート関連のイベントは、そのような幻想から海外からの参加業者を集めてきた。しかし、海外勢は最低限の経費が回収できないと二度と参加しない。 東京フォトは2012年あたりをピークに海外参加者が激減した。2014年はわずか数社だけだった。
実は韓国で開催していたソウル・フォトも同じような経緯を辿っており、初回から運営を行っていた会社が2015年までで撤退するという。ともに来場者はあるものの、写真が思いのほか売れないことで商業ギャラリーの参加が減少傾向をたどってきた。
主催者は写真家の作品を展示して集客する、フォト・フェスティバル的(以下フォト・フェス)な要素を強めて生き残りを図った。しかし文化振興を目的としたイベント事業の開催は、民間ベースでは限界があったのだろう。東京とソウルの一連の流れは、2014年から経済の勢いが違う中国で上海フォトが始まったことも影響しているだろう。
しかし東京フォトの場合、主催者は強い実行力と豊かな人的ネットワークを持っている。海外から有力ギャラリーを招聘し、国際的なフォト・フェアを運営してきた実績は評価に値するだろう。日本独自のフォト・フェアの形を模索して、ぜひ再挑戦してほしい。

このように、コレクター向けの写真販売を目的とするフォト・フェアは、写真愛好家向けの写真展示、ワークショップ、レクチャーなどを行うフェト・フェス化してきた。フォト・フェスのほうがアマチュア写真家も参加しやすく、企業スポンサーも付きやすいのだと想像できる。その典型例が、写真での町興しを目的とする京都の「KYOTOGRAPHIE」だろう。
アマナが中心になって開催した「代官山フォトフェア」も、ギャラリーの販売目的から写真展示と各種イベント開催が中心のフォト・フェスへと軸足を移していた。写真雑誌PHaT PHOTOも、大田区城南島で写真愛好家向けに「東京国際写真祭」というフォト・フェスを開催している。
写真があまり売れない以上、写真関係のイベントは企業が支援する形式にならざる得ない。写真はデジタル化し、スマートフォン普及などで、急激に民主化し、いまや誰でも写真撮影する時代になった。写真はアートとしてコレクションするものというよりも、自らが撮って楽しみ、また多くの人とコミュニケーションする手段として広がっていったのだ。
今後も、愛好家が集い、互いにコミュニケーションをはかるフォト・フェス的なものが中心に開催されるだろう。

アート写真に鳴り物入りで参入してきた商業写真大手のアマナも経営方針の見直しを行っている。蔦屋と共同でインテリア写真の世界的大手のイエロー・コーナーと合弁会社を設立させた。国内ではイエロー・コーナーでの商品開発や直営店での販売、小売店への卸を通して低価格帯の写真販売に力を入れるという。商業写真で培ったアマナのノウハウが生かせそうだ。
一方でアート系は、有名作家作品をプラチナ・プリントで制作するアマナ・サルトでの海外販売を中心にするそうだ。いままでの実体験を通して得られた市場の状況認識を反映させた現実的な対応だろう。

私も香港の「イエロー・コーナー・パリ」のショップを訪れたことがある。非常に綿密にマーケティングが行われたと思われるヴィジュアル、多岐にわたる取り扱い分野の品揃え、スタッフも親しみがあった。とてもカジュアルな雰囲気で、まさに入りにくいアート・ギャラリーとは対極の場所だった。
この分野の写真販売は一般商品の小売業と同じなので、利便性のよい家賃が高い場所への出店などが求められる。また在庫を揃えた上での薄利多売のビジネスモデルなので、どうしても資本力が必要になる。まさに企業に適した写真関連ビジネスといえるだろう。全くの新市場というよりも既存の版画市場と重なるので、ある程度の市場規模は見込まれる。市場規模が拡大すれば、欧米のように商業写真家やアマチュア写真家が、写真販売で収入を得る新たな道が開けるだろう。

このような状況下でも、欧米市場で資産価値が認められている外国人写真家のプライマリー市場での取り扱い作品はそれなりに売れていた。有名写真家のセカンダリー市場での作品がかなり高価になったので、日本でも中長期的な視点での次世代の有力写真家の物色が始まっているのではないだろうか。欧米のプライマリー市場では様々なキャリアも持つ資産価値構築過程の人たちにより厚い層が形成されている。この中での熾烈な競争から将来のブランド作家が生まれるのだ。
残念ながら、そのように継続して作家活動を行い実績を上げている日本人写真家は非常に少ない。つまりこのカテゴリーへの作品供給がなく、買う側にとっては日本人写真家はなかなかコレクション対象にならないのだ。
一方で、日本人写真家による低価格帯の写真作品、欧米の有名写真家のフォトブックはそれなりに売れていた。資産価値のある作品と低価格帯作品が売れるという市場の二極化傾向は2016年も続くと予想する。

今年を展望するに、市場規模が小さい日本はともかく、実は昨年にオークションの売り上げが大きく減少した欧米市場の動向の方が気になる。いま資本主義システムの大きな構造的な変化が、世界的に起こりつつある。特に中間層がコレクターの中心だったアート写真市場にはその影響が出ているのではないかと疑っている。話すと長くなるので、この点については機会を改めて分析してみたい。

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2015年7月21日 (火)

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(4)
はてしなく自由な新山清の作品制作

新山清(1911-1969)は、サブジェクティブ・フォトグラフィ(主観主義写真)の写真家として、ドイツのオット・シュタイナート(1915-1978)に認められた写真家だ。私どもは、彼こそはマージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真に分類されるべきだと考え、先月のAXISフォトマルシェ2で展示している。

サブジェクティブ・フォトグラフィとは、20世紀中盤に世界的に起きた写真表現の動きで、自立した個人が世界の事象に対する解釈や視点を写真技術を駆使して積極的に表現すること。しかし、日本では独立した個人という感覚が希薄なことから、写真撮影の方法論、テクニックだと理解されて定着せずに忘れ去られてしまった。しかし、ドイツではベルリンのキッケン・ギャラリーが2013年と2014年にサブジェクティブ・フォトグラフィを再評価するグループ展を2回開催している。いまアート写真の世界では、デジタル技術を駆使した、現代アート的作品が市場を席巻している。このグループ展は、サブジェクティブ・フォトグラフィをその原点と解釈しようという意図があるのだろう。

さて民藝が職人の手作業に注目したように、マージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真では、写真家がどれだけ心を開いて世界と対峙しているか、また見る行為の強度を重要視する。 しかし、それは撮影時だけに止まらないことを新山清の写真は教えてくれる。つまり、撮影した写真をどのように自分の最も納得のいく最終形の作品に仕上げるかということだ。それには、暗室でのプリント作業。イメージの最適なトリミングなども含まれるだろう。

新山清の代表作にフカヒレを撮影した"Untitled(Fins),1950s-60s"がある。オリジナルはソルントンフレックスで撮影された6X6cm判のスクエアのフォーマットの写真だ。(以下の画像)
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干されているヒレの下部分には、遠方の草原の風景が広がっている。なんと彼は大胆なトリミングを行い、下部の遠景部分を切り落として横長の作品にしているのだ。
実はこの横長の作品、いままでに2種類の方法で提示されている。ドイツのキッケン・ギャラリーが2013年に開催したグループ展の際に刊行している「subjektive fotografie」には、前記のスクエアを横長にトリミングした作品が収録されている。(以下の画像)
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一方で、2010年に刊行された写真集「新山清の世界vol.2」では、なんと天地を逆にした作品が掲載されているのだ。(以下の画像)
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アーカブスを管理する新山洋一氏は、オリジナルとトリミング後の両作品を公開しているが、意識的に作品を制作するサブジェクティブ・フォトグラフィの写真家と評価するならば、トリミングされた方が写真家の意図が的確に反映されていると解釈できるだろう。
では天地の逆転についてはどうだろうか。2010年刊の写真集に天地逆の写真が採用されたのには何か理由があるはずだと考え、新山洋一氏にヴィンテージ・プリントを再確認してもらった。写真裏面には新山清の直筆と思われる数字が鉛筆で書かれており、その方向で表面を確認すると天地が逆転した方だった。これから本人が意図的に行っていた創作行為の一環だったことが推測できる。写真集刊行時には、プリント裏面の書き込みに忠実に天地が逆の写真を掲載、一方でキッケンのカタログはオリジナルに忠実にトリミングだけ施された写真を掲載したのだろう。
3種類の写真を見比べると様々なことがわかってくる。
スクエア・フォーマットの写真はグラフィカル的に非常にきれいにまとまっている。しかし、全体的に漁村で撮影したドキュメント的な印象が強い。一方で、下部分がトリミングされた写真は、そのままでは余白スペースの残り具合に違和感があり、天地を逆転した方が全体のバランスが格段に良くなるのだ。
最終的なセレクションからは、彼がこの写真をドキュメントとは認識していなかったのがよくわかる。このへんは、より最適なデザインの追及ではないかとツッコミが入りそうなところだ。しかし、写真が一般的にはアートと認識されていなかった約50年以上前に、ドキュメント写真では絶対にあり得ない大胆なトリミングと、天地逆転の実践は、写真を見る行為に対する強い集中力を感じざる得ないだろう。明らかに単なるデザイン追及を超えている。オット・シュタイナートは、このような自由な新山清の表現は意識的であると考えてサブジェクティブ・フォトグラフィーと見立てた。しかし当時の新山清は、まだそのような自覚はなかったのではないか。いや正確にはシュタイナートの視点に気付く前に、不幸にも若くして亡くなってしまったのだ。そうであれば、彼の創作が無意識のうちに行われたと解釈して、マージナル・フォトグラフィーたるクール・ポップ写真と評価したほうがわかりやすいのではないか。これが新山清作品に対する私の見立てだ。

私の単なる思いつきで日本の新カテゴリー写真として提唱を始めたマージナル・フォトグラフィーのクール・ポップ写真。予想外に多くの人が興味を持ってくれる。またこれは予想通りなのだが、写真家以外の人がよく反応する。将来的に、何らかの形でグループ展の開催を考えているので写真の見立てに興味のある人はぜひ協力してほしい。

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