2017年6月21日 (水)

写真展レビュー
ソール・ライター展
Bunkamura ザ・ミュージアム

本展は、ペンシルヴァニア州ピッツバーク出身のアメリカ人写真家、画家、ソール・ライター(1923-2013)の日本における初回顧展。ニューヨークのソール・ライター財団から提供された、写真(カラー・モノクロ)、絵画、その他資料を含む約200点を展示している。
最近の写真関係の展覧会は大判サイズのデジタル写真を見せる現代アート系が多い。本展は小さいサイズの銀塩オリジナルプリントをマットに入れて展示する20世紀写真の中規模の展覧会。写真の題材は、ファッション、ストリートのスナップ、ポートレート、ヌードが含まれる。
ライターは、従来はモノクロ中心だった写真の抽象美をカラーで追求した写真家。元々抽象画家で色彩感覚が優れていた。また日本の北斎などの浮世絵の構図にも多大な影響を受けている点も注目されている。そのようなカラー作品は写真を叙情的に捉えがちな日本の観客には受け入れられやすいだろう。
展示作は、シュタイデルから刊行された"Early Color"(2006年刊)、"Early Blck and White"(2014年刊)、"In My Room"(2017年刊予定)からの作品が数多く含まれている。
青幻舎からも同展に際して日本向けにヴィジュアルを重視したカタログも刊行されている。
 
ソール・ライターの波乱万丈のキャリアやプロフィールについては、Bunkamuraザ・ミュージアムのウェブサイトに詳しく掲載されているのでそちらを参考にしてほしい。
ここではライターのファッション写真のアート性に注目してみよう。彼は50年代後半から70年代までに主にファッション写真家として、ハーパース・バザーやエスクアィアなどの雑誌で活躍している。しかし、当時は写真はともかくファッション写真のアート性は全く認識されていなかった。実は20世紀後半に商業写真分野で活躍し、写真によるアート表現に限界を感じて作家性追及を諦めた多くの人がいる、リリアン・バスマンの夫のポール・ヒメール、ルイス・ファー、英国ではギイ・ブルダン、デヴィッド・ボウイのアラジンセインのジャケットで知られるブライアン・ダフィーなどが直ぐに思い浮かぶ。ライターもそのような写真の可能性に絶望した一人だった。しかし、彼のファッション写真は単に服の情報を撮影したもののではなかった。彼はファッション写真について"私が行った仕事を否定する気はないが、ファッション写真家としてだけ記憶されるのは本意ではない"と語っている。また"仕事で撮影した写真が結果的にファッション写真というよりも、それ以上の何かを表現する写真に見えることを望んでいる"とも語っている。
彼は野外のストリートでのファッション撮影を好んだことで知られている。当時はまだスタジオでの仕事が一般的で彼は"アウトサイダー"と呼ばれていたそうだ。結果的に彼のファッション写真には、ストリートで展開されていた時代背景が写り込まれていた。当時の米国ニューヨークの軽やかな時代の気分や雰囲気を表現されていたのだ。
写真史家マーティン・ハリスンは、ライターが1963年にハーパース・バザーの仕事の合間にダブリンで撮影したアイルランド人少年のポートレート写真"Irish Boy,1963"をハーパース・バザーに掲載されたカラー作品5点とともに"Appearances: Fashion Photography Since 1945"で紹介している。
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Saul Leiter "Irish Boy,1963"
Martin Harrison "Appearences" p-123

彼は、この写真は正確には雑誌に掲載されるような洋服の情報を伝えるようなファッション写真ではないが、着ている服装とともに伝わってくる少年の自信に満ちた姿はとってもスタイリッシュだと指摘している。彼は、これこそが広義のアート表現になり得るファッション(時代性)の反映された写真だと分析しているだと思う。
 
ライター作品の相場をみてみよう。ちなみに、彼の作品はニューヨークの有力ギャラリーのハワード・グリンバーグが取り扱っている。しかし、オークションでの取引実績はあまりない。だが相場は最初に紹介された90年代よりも明らかに上昇気味だ。2000年代は、ちょうど現代アートの価値観が従来のアート写真の価値観を飲み込んだ時期。同時に多くの20世紀に活躍した写真家のアーティストとしての再評価が行われた。ライターの時代性が反映された写真・絵画はその流れの中でアート性が注目されるようになったのだろう。
展覧会のフライヤーにも利用されている代表作"Snow(雪)、1960"は2016年5月のフィリップス・ロンドンのオークションに出品されている。
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こちらはエディション10、サイズ34.2 x 22.8 cm、ハワード・グリーンバーグで売られたモダン・プリント作品。落札予想価格は4000~6000ポンド(@150で約60~90万円)のところ9,375ポンド(@150で約140万円)で落札されている。写真作品としては高額だが、同じくカラーの巨匠であるウィリアム・エグルストンや、同じニューヨーク・スクール系のロバート・フランクと比べると評価が低いようだ。彼らとの違いは何かといえば、撮影時の米国社会の価値観との関わりが感じられない点、つまりテーマ性の弱さなのだろう。

私どもは日本独自のアート写真の価値基準として限界芸術の写真版のクール・ポップ写真を提唱している。最近は海外の20世紀写真家のなかにクール・ポップ的な人がいたことに気付かされている。実はソール・ライターもそのような写真家に含まれるのではないかと考えている。これについては別の機会に分析してみたい。

 
Bunkamuraザ・ミュージアムでの東京展は6月25日まで。
2018年春には大阪の伊丹市立美術館に巡回予定。
 
開催期間:2017/4/29(土・祝)-6/25(日)
開館時間:10:00-18:00(入館は17:30まで) 毎週金・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで)
会場:Bunkamura ザ・ミュージアム(東京渋谷)
入館料:一般 1400円
 

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2017年5月24日 (水)

写真展レビュー
「TOPコレクション-平成をスクロールする 春期  いま、ここにいる」
東京都写真美術館

Guide116

平成を迎えたばかりの90年代の日本は、ちょうど資本主義が発展し多くの人が便利な生活を送れるポスト工業社会へ移行した時期だ。それ以降、IT社会化、グルーバル社会化が進展することになる。昭和のような大きな物語が世の中からなくなり、人々が多様な生き方が可能になった時代でもある。それは価値観が相対化していった時代ともいえる。昭和には、多くの人が共感可能な時代の気分や雰囲気が反映された写真作品の提示が容易だった。特に現代アートのようにテーマ性がなくても、写真家と見る側のコミュニケーションが成立した。

平成が進んでいくと、多くの人が共感するような将来の夢、幸福が減少していき、また時代の気分や雰囲気もあいまいになっていく。時代性がどんどん相対化していったのだ。自分の実感している世界を表現する創作行為は、細分化した時代感覚をすくい上げることとなり、複雑な社会の中でテーマを見つけ出す現代アートと変わらなくなった。
 
そのような平成という時代を「いま、ここにいる-平成をスクロールする 春期」で美術館がどのように解釈しているかは非常に興味あるところだ。同館のキュレーター伊藤貴弘氏は90年代の中ごろに評論家の宮台真司氏が主張していた「終わりなき日常」を引用していた。佐内正史、ホンマタカシ、高橋恭司などの風景写真にはそのような時代状況が反映されていると見立てているようだ。しかし、「終わりなき日常」もまた、平成の数多くある価値観のひとつに過ぎないともいえるのではないか。冷徹なる現実として、いくら意味が見いだせない世の中でも人間は社会の中で生きるしか選択肢がない。このような価値観が相対化した時代の写真は、アートとしてパーソナルな視点での写真家の世界の認知がテーマとして提示されない限りは、それぞれの撮影者のその時の個人的な感覚の連なりが反映されたものになりがちになると考える。
本展にはそのような感覚が重視された写真作品が中心に展示されている印象を持った。感覚は撮影した人の数だけ存在して、それぞれに優劣がないのが特徴だ。誰もそれらを比較して価値の上下を付けられないということになる。

今回の展示には既視感を感じた。以前に同館で開催された東京をテーマにした展覧会「東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13」を思いだした。巨大都市東京もあまりにも多様で、認知も感じ方も細分化している。上記の平成の認識も東京とかなり重なっている。どのような断面で切り込んで撮影しても、それは撮影者の心と頭で認識された東京がある。東京と場所が限定されるだけで、撮影した人の数だけ東京の認識と心象が存在していて、それを誰も否定できない。ある写真家が同展を見て、共感できる写真がなかったという意見を述べていた。それは、その写真家が認識している東京が反映された写真が展示に見つからなかったことを意味する。それがさらに大きなくくりの平成となると、もっと表現の範囲は大きくなってしまうだろう。

最近は自分が理解できない写真が多いという意見を、写真家や写真趣味の人からよく聞く。同じような疑問として、なんで今回の写真家と作品が同展に選ばれたか理解できないという意見も、たぶん多くあるかもしれない。しかし、それらは見る人が持っている時代の気分や雰囲気と、展示されている写真作品のものが合致しなかった理解すればよい。自分と違う感覚の写真を理解できないのは当たり前なのだ。当然だが、感覚がシンクロする人も存在しているだろう。そのような状況は、写真の時代感覚が多様化、相対化が進んだ平成という時代には当たり前だ。それは、アート写真が美術史や写真史を知らないがゆえに理解できないのとは意味が違う。
本展は秋にわたって3回にわけて3人のキュレーターが選んだ作品群が展示される予定とのことだ。多様化している状況をできる限り適切に提示するには、幅広い年齢の写真家の多種の写真を複数のキュレーターが選んで展示するしかないだろう。それらの中には、必ず見る人の感覚とシンクロした写真が発見できるはずだという意図だと思われる。
本展は、現在の日本の「写真」の現状を的確に示しているといえるだろう。
7月15日からは夏期の「コミュニケーションと孤独」が始まる。多くの現代人が立ち止るキーワードが含まれたタイトルで、実際の展示がいまからとても楽しみだ。
 
総合開館20周年記念 TOPコレクション
平成をスクロールする 春期 「いま、ここにいる」
東京都写真美術館
 
参加写真家
佐内正史、ホンマタカシ、高橋恭司 、今井智己、松江泰治、安村崇、花代 、野村佐紀子 、笹岡啓子
 
開催情報
5月13日(土)~7月9日(日)
10:00~18:00、木金は20:00まで、入館は閉館30分前まで 
 
休館日:毎週月曜日(ただし月曜日が祝日の場合は開館し、翌平日休館)
 
料金:一般 500円/学生 400円/中高生・65歳以上 250円
 

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2017年4月19日 (水)

写真展レビュー
テリ・ワイフェンバック「The May Sun」
IZU PHOTO MUSEUM

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The May Sun Ⓒ Terri Weifenbach

米国人女性写真家テリ・ワイフェンバック(1957-)の「The May Sun」展がIZU PHOTO MUSEUMでスタートした。彼女は写真で表現するアーティストとして20年以上のキャリアを持つが、国内外の美術館では初個展とのことだ。
本展は、4つのパートから構成されている。導入部分で初期作品の紹介的な意味合いで「In Your Dreams」などのフォトブックを紹介している。続く2つのメインギャラリーでは「The May Sun」と「The Politics of Flowers」を展示。出口近くのスペースでは彼女の新しい試みの映像作品やインスタレーションを展示している。同作はデジタルカメラ使用で制作可能になった動画作品の可能性を探求した実験的な要素が強い。
 
本展の中心展示は「The May Sun」、「The Politics of Flowers」となる。
前者は数年前の伊豆滞在時にデジタルカメラで撮影された、デジタルCプリントとアーカイバル・ピグメント・プリントで制作されたカラーによる自然風景の大判サイズ写真。
後者は2005年にフランスの出版社onestar pressに招待されて制作したフォトブックからのセレクションとなる。現在でも紛争が絶えないパレスチナの地。19世紀、聖地巡礼者の間では、同地で咲く花で制作された押し花帖がエルサレム土産として人気があったという。展示作品は、ワイフェンバックがネットオークションで購入した押し花帖からスキャニングされて制作された小ぶりのモノクロのアーカイバル・ピグメント・プリントだ。この制作アプローチは現代アート分野の表現で見られる、ファウンドフォトを再解釈して作品化する方法に近い。
 
この二つはあらゆる面で全く性格の違う種類の写真といえるだろう。それゆえ本展全体のテーマとコンセプトがやや分かり難くなっている。彼女の写真を知らない人は、まったく関係のない2作品の展示と受け取るかもしれない。
4月9日にワイフェンバックと写真史家の金子隆一氏のトークイベントが開催され、上記2作について本人の口から断片的かつ間接的に展示意図が語られた。ここでは、私なりに彼女が本展で何を表現しようとしているのかを分析してみたい。
 
「The Politics of Flowers」は、21世紀の現在でも世界中で紛争が絶えない状況を暗喩した作品ではないか。彼女は母親の死をきっかけに同作制作を思いついたという。押し花帖を手にとることで、彼女の思いは母との死別で精神的に打撃を受けている自分と同じように、家族、友人、仲間、親戚の死や負傷に直面しているパレスチナの地の人々の存在へと及んだという。
海外のアーティストは、自由平等、差別反対などの様々なメッセージを世界に対して作品や行動で発信する人たちだ。ワシントンD.C.在住のワイフェンバックも、女性に差別的な発言を繰り返してきたトランプ氏に抗議するデモに参加したという。最近でも、世界各地で発生するテロ事件、シリアやアフガニスタンでの紛争のニュースがマスコミで報道されている。彼女が本展を構想し始めた時期よりも世界の状況は混迷を深めている。彼女が理想としている状況が遠のいているといえるだろう。彼女はモノクロは破壊や衝突を表すとしている。色のない押し花作品はまさにこのような状況が現存するという問題点の提示なのだ。
 
「The Politics of Flowers」が破壊なら、「The May Sun」はそれに対する再構築を意味すると語っている。つまり前者で行った現状認識および問題提起に対する彼女の回答だと理解したい。ワイフェンバックは場所の持つ気配を感じ取って写真で表現するのを得意とする。それはオランダ北東部のフローニンゲンで制作された時代の変遷により歴史から消えた場所の残り香を紡ぎだした"Hidden Sites"(2005年)などで見ることができる。
私は本作を見て、彼女は歴史を大きく遡って古の日本人が伊豆の山河に感じた神々しさ、言い方を変えると八百万の神を表現していると直感した。
それは自然を神の創造物ととらえ、人間が支配し管理するものだという西洋の考え方への疑問符なのだ。一方で日本では、優美という価値観を持ち、自然に神の存在を感じて共に生きるというメンタリティーを古来から持っていた。天然資源を消費することで経済が発展し人類は豊かになったものの、世界的な環境破壊、それが原因とみられる気候変動も引き起こした。いま西洋の合理主義的な考え方に多くの人が限界を感じ始めている。それに対して様々な対処方がある。自然とともに生きるという考え方の採用も一つの選択肢として説得力を持つだろう。ワイフェンバックは、その思想が文明が犯してきた破壊に対しての再構築の意味合いを持つと考えているのだ。
「The May Sun」の多くの写真はクレマチスの丘で撮影されている。その広大な庭園の美しい自然は多くの人によって手入れがされて育まれている。このような配慮が生まれてくる背景にある哲学が、自然との一体感だと彼女は見ているのだ。ただし彼女の伝えたいメッセージは100%の西洋否定、東洋称賛ではない。アーティストは決して夢見るロマンチストではなく、現実的に世界を見ているのだ。つまり極端に行き過ぎないバランス感覚を持つことが重要ということだろう。
歴史的背景の違う西洋人のメンタリティーが急に変わることはない。また今まで続いてきた経済成長優先の社会システムも同様だ。しかし彼らでも、自然を愛して共存する感覚を持てれば、考えが違う人に対する配慮が多少なりとも可能になるのではないかというメッセージなのだ。もちろん、それはトランプ大統領にも向けられているのだろう。
これは本人の意図はともかく、日本人に対してのメッセージだとも受け取れる。私たちは自然を愛する感覚やメンタリティーも持つが、感覚や共同体の空気に流されがちで、自ら考えることができないという欠点も持つ。私たちも西洋人とは逆の方向で、意識的にバランス感覚を持たなければならないのだ。
 
本展は非常に大きいテーマを取り扱っている。オーディエンスは作品の表層を鑑賞するだけでなく、意識的にアーティストのメッセージを読み解く努力が必要になる。それができれば、彼女が長年にわたり植物、自然を被写体として作品を制作してきた理由を理解できるだろう。もしかしたら、ウェイフェンバックは無意識のうちに撮影していたのが、本展企画に際して日本の山河を初めて本格的に撮影する機会を得て、新たな気付きがあったのかもしれない。そうであるならば美術館のキュレーションが見事だったということだ。
また同館が彼女のカラー作品と比べて地味な印象だった「The Politics of Flowers」に光を当てた点も重要だ。同作は彼女のカラーの風景作品と対をなして存在する事実が見事に提示された。かつてギャラリーの来場者から、彼女の明るくカラーフルな写真に何か怖さを感じる、デヴィット・リンチの映画ブルーベルベットを思いだしたという意見を聞いたことがある。彼女の中での「The Politics of Flowers」の意味を知ると、そのような印象を持つ人がいるのに納得できるだろう。
本展は、ワイフェンバックのキャリアの中で極めて重要な展示になっている。
 
◎開催情報
テリ・ワイフェンバック|The May Sun
IZU PHOTO MUSEUMS
 
4月9日(日)~8月29日(火)
10:00~18:00 (入場は閉館の30分前まで) 
休館日
毎週水曜日(祝日の場合は営業、その翌日休) 
入館料
大人800円、高校・大学生400円、小・中学生無料 
 

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2017年3月22日 (水)

展覧会レビュー
MEMENTO MORI
ロバート・メイプルソープ写真展
シャネル・ネクサス・ホール

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『Orchid』 1988
©Robert Mapplethorpe Foundation

ロバート・メイプルソープ(1946-1989)は、エイズでわずか42歳で亡くなった伝説の米国人写真家。80年代に写真をファイン・アートのコレクション対象物に広めたことで知られている。彼は、当時はタブーだった黒人メールヌードやSMなどをテーマにするとともに、自らがエイズで若くして亡くなったことからスキャンダラスな写真家の印象が強い。アート性の評価は、ゲイの美意識により制作された、モノクロの抽象美を追求した高品位のファインプリント作品のというものだった。フォーマル・デザイン、被写体のディーテールや対称性、フレーミングへのこだわりが結合して、耽美なメイプルソープの写真世界が構築されていた。
彼の作品相場は、エイズであることが明らかになった1986年ごろから大きく上昇した。しかし1989年の死後の価格上昇は穏やかなものだった。当時の写真としては斬新だったものの、現代アートが市場を席巻するのに従い、表層重視の20世紀写真カテゴリーの人という評価から抜け出せなかったのだろう。
しかしメイプルソープの近年の展示は、美術史との新たな関係性発見を試みるようなものが多くなっている。特に2004年にグッゲンハイム美術館ベルリンで開催された展覧会は、メイプルソープの写真作品と古典芸術、特に16世紀のマニエリズムの木版画、銅版画彫刻との関連を探求したもので印象深かった。ロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館の版画、彫刻などのマニエリズム作品と、グッゲンハイム・コレクションのヌード、花などのメープルソープ作品の多くがセットで紹介。表現方法や場所を超越した、過去から現在につながっているアート史との関連性が見立てられていた。
近年行われたその他の紹介は、作品カテゴリー別の編集、評価による企画が多かった。それらには、ポラロイド写真、セルフポートレート、SMやフェティズム、フラワーシリーズなどが含まれる。
いまメイプルソープ再評価の試みが世界中でゆっくりと着実に進行中なのだろう。もしかしたら最近の彼の相場は過小評価なのかもしれないと感じている。
 
今回のシャネル・ネクサス・ホールでの展示は、シャネルとかかわりが深い有名建築家のピーター・マリーノによるコレクションからの出品とのこと。ちなみに会場のあるシャネル銀座ビルディングは同氏の設計なのだ。プラベートな収蔵作なので新たな視点でメープルソープ作品の再評価を試みるような展示ではない。展示数はホワイトギャラリー1が26点、ホワイトギャラリー2が22点、ブラックギャラリーが43点の合計91点。リストによると5点がプラチナ・プリント、残りがシルバー・プリントだ。
彼は1976年からハッセルブラッドを入手してネガフィルムでの作品を制作している。本展ではそれ以前の、自作フレームを利用した作品、インスタレーション、ポラロイド、またカラー作品は含まれていない。日本での本格的な作品展示は2002年に大丸ミュージアム(東京)などで開催された回顧展以来とのことだ。
セレクション的には、モノクロのポートレート、花、黒人ヌードが中心に編集されている、1992年に刊行された"Mapplethorpe" (Random House Trade刊)に近いだろう。同書には、より衝撃的な部分的ヌードやハードなSM作品が収録されている。ちなみに日本版は1994年にアップリンク社から刊行された。想像するに、ピーター・マリーノのコレクションにもその種の作品は当然含まれているが、本展では総合的な判断から比較的穏やかな印象の作品がセレクションされたのだろう。
とても印象深く感じたのは銀塩やプラチナプリントで制作されたモノトーンな美しさだ。特に被写体の肌の部分の中間トーンの諧調の再現力は秀逸だった。最近の写真はモニターで見る機会が圧倒的に多い。特にそれに慣れた若い世代の人はコントラストが強めの写真プリントを制作しがちだ。それ自体が、何らかの作品テーマとの関わりがあれば問題ないのだが、最近の写真は私たちの実際に見て感じている世界とはかなり違っている。本展ではファイン・プリント写真のモノクローム表現の美しさを再発見させてくる。

カタログの紹介文でシャネルのコラス社長は、メイプルソープとシャネルの革新性を指摘し、「メイプルソープもシャネルも、物議を醸しだしたり、ルールを破ったり、予想を裏切ることを恐れませんでした」と書いている。しかし、死後約28年が経過し、メイプルソープの革新性はもはやクラシックになったのではないだろうか。私は、本展は現代アートが市場を席巻する前夜の、アナログ写真の歴史と伝統の集大成を見ているように感じる。それは老舗シャネルのブランド・イメージとも重なるだろう。

これだけの貴重なメイプルソープ作品を一堂に鑑賞できる機会はめったにない。写真ファン、アートファンは必見の展覧会だろう。なお同展は4月開催の「KYOTOGRAPHY 京都国際写真祭」のメイン展示にもなるそうだ。
 
「MEMENTO MORI ロバート・メイプルソープ写真展 ピーター・マリーノ コレクション」
3月14日~4月9日、12:00-20:00、無休無料
シャネル・ネクサス・ホール
東京都中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4階
 

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2017年3月15日 (水)

写真展レビュー
"山崎博 計画と偶然"は限界写真か?
東京都写真美術館

いままで日本における新たなアート写真のカテゴリー創出を提案してきた。現在、東京都写真美術館で開催されている"山崎博 計画と偶然"を鑑賞して、彼こそはこのカテゴリーの写真家ではないかと直感した。
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武蔵野美術大学出版局刊
 
少しばかり長くなるが、いま一度新カテゴリーの概要を説明しておこう。過去に書いた解説と重なる部分があるのはご容赦いただきたい。
現在の写真カテゴリーを大きく分けると、制作者のオリジナルな創造性を愛でるファイン・アート系と、実用的なデザインやインテリアを重視した応用芸術系がある。ファイン・アートは元々は欧米から輸入された概念であり、日本では感覚やデザイン性の追求がアート行為だと拡大解釈されてきた。写真表現もファイン・アートというよりも応用芸術系が中心になっている。
ファインアート系には、かつて20世紀写真という分野があった。20世紀には、写真はアナログ制作の特殊性によりアート界でも独立して存在していた。そこでは印刷で表現できないファインプリントの美しさと、モノクロの抽象美が追求されていたのだ。しかし21世紀になり現代アートの市場規模が急拡大し、また写真のデジタル化進行で技術的な敷居がなくなり誰でも制作できるようになった。この大きな変化により、写真は大きな現代アート表現の一部になって、現在の状況に至るのだ。従来の20世紀写真の流れを踏襲する写真家は、写真分野のアルティチザン(職人)のような存在となった。
しかし、そのような写真独自の美学や技術を追求している人が、無意識のうちに時代特有のメッセージが反映された作品を提示している場合も少なからず存在している。それらは意識的に行われるのではないので、現代アート分野の写真ではない。しかし、デザインや感覚を重視するインテリア系写真でもない。
これらは全く新しい分野というよりも、従来の日本の美術・文化史とのつながりから見出すことが可能なのだ。かつて評論家の鶴見俊輔が提唱した限界芸術という考えにかなり近い。彼は著書「限界芸術論」(1967年、勁草書房刊)で以下のように定義している。「今日の用語法で『芸術』と呼ばれている作品を、「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を『大衆芸術』(Popular Art)と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を『限界芸術(Marginal Art)』と呼ぶことにしよう。」
限界芸術の一部だと鶴見が指摘している分野に、柳宗悦が提唱する「民藝」がある。柳は優れた美であれば、鶴見のいう純粋芸術にあたる「作家性のあるもの」とともに、無名な職人の作品を積極的に評価してきた。
欧米の価値観では分類できない多くの日本の写真家の作品群は、この限界芸術ににかなり近いとのでないかというのが私どもの気付きなのだ。そしてこの限界芸術や民藝の写真をクール・ポップ写真と呼ぼうと提案してきた。新しいカテゴリー分けを行うことで、いままですっきりしなかった日本のアート写真の分類がわかりやすくなると主張してきたのだ。
 
ファイン・アート系写真家の場合、その最終的な評価は死後にセカンダリー市場で取引が成立するかどうかだ。つまり歴史に多少なりとも存在の痕跡が残せるかにしのぎを削っている。限界写真(マージナル・フォトグラフィー)のクール・ポップ写真では、写真家が作品販売のしがらみから解放される。写真家にとって、写真は市場の評価を得るものではなく撮るもので、社会とのコミュニケーションを交換する手段となる。アーティストとは写真を販売して生活する人ではなく、写真撮影をライフワークとする人になる。それは人生を通して能動的に社会と接する一種の生き方を意味する。どれだけ心を開いて世界を真剣に対峙したうえで撮影されたかが重要視される。逆説的だが、作品を売ろうという気持ちが消えた時にクール・ポップ写真は生まれるのだ。

評価は第三者の直感による見立てにより行われる。現代アートのようにテーマやアイデア・コンセプトは写真家自身から語られない。民藝が職人の手作業に注目したように、クール・ポップ写真では写真家が心で世界を見る行為に注目する。しかしそれは評価者の主観的な好き嫌いや思いつきでは行われない。また瞑想のような見る行為自体に安易に価値を見出すのには注意が必要だろう。それは優劣がない感覚自体の評価と表裏一体だからだ。またインテリア写真のようにデザイン的視点からだけの評価でもない。「直感」は見る人の美術・写真史や各種情報の集積、様々な感覚に対する理解の結果もたされる。写真家が無意識のうちに提示しようとしている新たな組み合わせ、融合された視点に気付くこと。そしてそれが時代の中にどのような意味を持つかの判断だ。

内在しているアート性のヒントは、写真家が無意識のうちに写真り続けるようになったきっかけや、その背景に隠されていると考える。そこに至るまでの過程には現代社会における何らかの価値観との関係性があるはずだ。
以上のように、写真家以上に見立てる人の実力が問われると考える。
 
さて、山崎博の写真展"計画と偶然"をみてみよう。
同展では、45年を超える作家活動の軌跡を初期作から新作までの182点の作品展示で回顧している。新カテゴリーの写真との類似性を見てみよう。
カタログの資料によると、彼の創作は「被写体を探して撮る」ことの否定、作為性を排した自身の新たな写真行為の実践であったという。また、写真はコンセプトに従属せず、コンセプトは写真に奉仕する、と山崎は述べていると紹介されている。同展キュレーターの石田哲朗氏は、"彼はいわゆるコンセプチュアル系の美術家がコンセプトの提示ために写真を用いるスタンスとは全く異なっている"と指摘している。山崎の写真制作のアプローチは、民藝などの陶芸作家の創作に近いという印象を持った。彼は、当時主流だった20世紀写真の価値観の、ファインプリントの美しさとモノクロの抽象美の追求を意識的に避けてきたのだ。それ自体を現代アート的に、方法論自体を作品コンセプトにしていると解釈できないことはない。
ここからは私の想像だが、どちらかというとカメラの構える方向などの撮影方法は大まかに決定されているものの、その後の創作過程は本人の内側から湧き出た衝動により突き動かされ、無意識に近いのではないか。それを抽象的写真と呼ぶ人もいるのだが、陶芸家と同じように真に心を開いて、無心の境地で世界と真剣に接したうえで撮影しているとも解釈可能ではないか。そして彼は従来の写真美の追求を避けてきたものの、完成した作品群は非常に美しいのだ。陶芸家が無心の境地から美しい作品を生みだすのに近い。それならば限界芸術の写真版と言えないことはないだろう。
限界写真のクール・ポップ写真では、アーティストとは、ライフワークとして能動的に社会と接する人の生き方を意味する。カタログのプロフィールを見るに山崎は作品の評価や市場性を求めることなく、写真を教えながら約45年も制作を継続している。彼の人生はまさに上記のようなものだったと解釈可能だろう。カタログでは石田氏が、山崎のフィルムの時代のケミカル・プロセスへのこだわりも評価している。ここも手作業に価値を置くクール・ポップ写真の評価と重なる。

新分野の写真は、誰かが見立てを行うことで評価される。今回の展覧会開催で美術館が見立てを行ったということだろう。山崎作品の評価は、20世紀写真の美意識にこだわる人や、現代アート的なテーマ性、アイデア、コンセプトを重視する人にはすんなりと理解できないかもしれない。しかし、日本の美術界に限界芸術や民藝が存在していたように、写真界にも独自の価値基準が存在していたことが本美術館展により明らかにされたのではないか。私どものような単なる業者が主張するのとは重みが違う。
同館での展示方針は、現代アートと20世紀写真の基準が混在した形式だと理解している。世界的にも珍しい"写真"の美術館であるから、このような展示スタイルになるのは自然だと感じている。しかし、海外から日本は特殊だと指摘される可能性もある。誤解を避けるために、将来的にはどこかの段階で日本独自の写真カテゴリーの提示は必要だろう。今回の展覧会を、その価値観を発信するきっかけにして欲しいと願っている。

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2017年1月25日 (水)

カール・ラガーフェルド写真展
"太陽の宮殿 ヴェルサイユの光と影"
@シャネル・ネクサス・ホール

ヴェルサイユ宮殿を撮影した作品というと、米国人女性写真家デボラ・ターバヴィル (1932-2013) の代表作"Unseen Versaille"(Doubleday、1981年刊)を思い起こす人が多いだろう。
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彼女は、一般の人が立ち入って見ることのできない宮殿内部を主に撮影。絵画のような雰囲気を持つソフト・フォーカスなヴィジュアルで、この特別な場所の幻想的な雰囲気を表現しようとした。

一方で、本展はドイツ出身のデザイナーでアーティストのカール・ラガーフェルド(1933-)によるもの。彼のほとんどの被写体は宮殿の外見や庭園など。ターバヴィルとは対極のヴェルサイユ宮殿の姿を提示している。写真は本当にオ―ソドックスなモノクロ写真だ。彼は宮殿で生活していた王族が何気なくみていたようなシーンを紡ぎだしている。広大な敷地の中でそのような場所を探し出して撮影したのだろう。この特別な世界遺産の各所で、観光客がいない何気ないシーンを見つけ出すのは非常に困難だと思う。作品の中に、一部人影は発見できるがほとんどが小さいシルエットとして表現されている。彼はこの一見普通の写真を撮るために特別な許可を得て作品制作に取り組んだのだ。
写されているのは、宮殿外観、庭園の野外彫刻・花瓶、人工池、階段など。それらの中には、フランス人写真家ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)が撮影したのと似たようなシーンも散見される。アジェは1901年ごろから約12年にわたりヴェルサイユ宮殿と庭園を撮影。それらは彼の最も美しい作品群と評価されている。ラガーフェルドは間違いなく19世紀のフランスの残り香を表現したアジェを意識していたと思う。個人的な印象だが、アジェの客観的でシュールにさえ感じるな視点での撮影と比べて、ラガーフェルドの写真の方がよりグラフィック的な要素を強く感じる。興味ある人はぜひ20世紀前半のアジェのヴェルサイユと見比べて欲しい。
ニューヨーク近代美術館が1983年に刊行した有名なアジェの4巻本"The Work of Atget"の第3巻"The Ancient Regime"に多くが紹介されている。

 

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ラガーフェルドは、これらの写真を通して、宮殿が持つ過去、現在そして未来への歴史の流れを表現しているのではないか。17世紀後半に建造されたヴェルサイユ宮殿は、21世紀の現在はもちろんん、未来にも不変な存在であることを念頭に置いているのだろう。それはシャネルという彼がデザインを手掛けるブランドの歴史とも重ね合わせていると思う。アジェを意識しているのであれば、写真やアートの歴史も本品に取り込んでいるとも解釈できる。ラガーフェルドは、抽象的な歴史という概念を、宮殿、ブランド、写真という具体的な要素を重ね合わせて表現しているのだ。これこそが彼のヴェルサイユ宮殿に向けられたユニークかつパーソナルな視点の意味なのだ。
プリントは、羊皮紙を模した紙を使い、スクリーンプリントの古い技法によって制作されたものとのこと。時間と歴史の経過と流れを意識した作品であることから、あえて取り入れたと想像できる。作品が額なしで直接壁面に展示されているのもプリントの質感を見せたかったからだろう。決してプリント手法が目的化されたのではなく、それ自体も作品テーマの一部なのだ。
 

カール ラガーフェルド写真展

"VERSAILLES A L'OMBRE DU SOLEIL"
(太陽の宮殿 ヴェルサイユの光と影)
Guide075

 

会期/2017年1月18日 - 2月26日 入場無料・無休
会場/シャネル・ネクサス・ホール 中央区銀座3-5-3シャネル銀座ビルディング4F
 

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2016年12月 6日 (火)

東京・TOKYO 日本の新進作家vol.13
東京都写真美術館
21世紀東京の表現アプローチを探る!

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21世紀のいま、写真家にとって"東京"をテーマに作品制作するのは極めて難しいだろう。それは展示企画するキュレーターにも当てはまる。世界中の大都市と同様に、東京には無数の問題点が横たわっている。しかし戦後の昭和のように、経済成長優先という多くの人が共有できた大きな価値観はもはや社会に存在しない。したがって、多くの戦後に生きた写真家がテーマにした、社会のダークサイドなどはもはや明確ではない。定常型社会化した東京では、多くの人とコミュニケーションが交換出来るような作品制作は非常に困難なのだ。
実際この地で暮らす人々には東京というキーワードは既に無意識化しており、それぞれが日々の生活に追われている。大都市であるがゆえに多種多様な価値観を持つ人が生活しているわけで、個別になされる問題提起も大都会の片隅に存在するわずかなノイズでしかありえない。それが偶然に見る側とコミュニケートする確率はもはや非常に低いと思われる。
一人の写真家の叫びも、価値が多様化した世界では激しい反発にあうことなどなく、ただスルーされるだけだ。東京をテーマにする写真家は、そのような表現者にとって最も残酷な状況に直面する可能性が高いといえるだろう。
いまそのような状況で多くみられるのは、様々な撮影技法や画像処理を駆使したもの、デザイン的感覚を重視した写真だ。見る側が少なくともその撮影アプローチやビジュアル自体に関心を示すからだ。いわゆる方法論の目的化で、それらはどうしても表層的で深みがない東京の作品になってしまう。それはパリやプラハの中世の面影が残る風景を撮影しても作品になり得ないのと同様の構図だ。

本展では上記のような方法論が目的化してない、誰もが違和感を感じない写真がセレクションされている。参加者は強いテーマ性を提示することなく、パーソナルな視点で東京という場所で淡々と写真を撮影している。大都市に横たわる局地的な現象や価値観を提示している作品をキュレーターがすくい上げているともいえるだろう。
個人の興味の違いによって、被写体は都市の風景、生活する人間、ヌードなどに、またプリントはカラーとモノクロ、制作手法はアナログとデジタルと、見事にばらけてセレクションされている。彼ら自体が現在の東京の多様な価値観そのものを反映させている存在だ。見る側は個別の写真家の作品に能動的に対峙するのではなく、展示全体がキュレーターが創作した一つの作品ととらえるとわかりやすいだろう。
ただし参加写真家の人数がやや少ないのではないかとも感じた。今回は新進の写真家を選出するという展示の性格上難しかっただろうが、東京はもっと多種多様なので紹介する写真家の人数を増やした方がより面白い展示になったのでないか。
それは同時開催されている「TOPコレクション展」のような様々な時代に生きた約40名もの写真家の展示ではなく、現代に生きる写真家10~15人展くらいが適当ではないかと考える。将来的により多数の写真家が参加する何らかの企画展に発展することを望みたい。
本展では、現在の東京における価値観の流動化もしくはカオス化が提示されている。21世紀東京の表現に挑戦した優れた企画だと思う。企画者の独断的な視点の押しつけがないことが展示全体の調和を見事にもたらしていた。
しかし、それが高度であるがゆえに文脈の説明を少し丁寧かつ明確に行ってほしかった。
東京の写真なので、一般来場者も感情的には親しみを持ちやすい。きっかけが提示されれば、さらに意識のフックへの引っ掛かりがもたらされるかもしれない。そこに新たなコミュニケーションが生まれる可能性があると考える。このあたりが現代社会でアートが果たすべき役割でもあるだろう。
 
・展示写真家
小島康敬、佐藤信太郎、田代一倫、中藤毅彦、野村恵子、元田敬三
・開催情報
11月22日(土)~17年1月29日(日)
10:00~18:00 (木金は20:00まで) 入館は閉館の30分前まで、 休館日 月曜日
・料金
一般 700円/学生 600円/中高生・65歳以上 500円 
 
 
 

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2016年9月20日 (火)

杉本博司 ロスト・ヒューマン
東京都写真美術館

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世界的に活躍するアーティスト杉本博司(1948-)。彼の「ロスト・ヒューマン」は、9月にリニューアル・オープンした東京都写真美術館の総合開館20周年記念展となる。本展は、2年前の春にパリの現代美術館パレ・ド・トーキョーで開催された<今日 世界は死んだもしかすると昨日かもしれない>をベースとして、世界初公開となる<廃墟劇場>、インスタレーションで提示される<仏の海>の3シリーズで構成されている。展覧会カタログによると、本展は、人類と文明の終焉という壮大なテーマを、アーティストがアートを通して、近未来の世界を夢想する、形式で提示するものという。
 
本展の杉本のメッセージを読み解くヒントをカタログ内で探してみた。それは学芸員の丹羽晴美氏のエッセーの最後の一文から見つけることができた。以下に引用してみる。
"<今日 世界は死んだ>の多様な展示物の中から自らの身に刻んだ歴史や現実を拾い上げ、<廃墟劇場>のスクリーンの前で普遍的な道理と呼応させ、<仏の海>の前で無になる。そして日常へ帰っていく。杉本博司がつくりあげた21世紀の黙示録は、まるで十牛図そのもののようだ"と書いている。
この一文こそが本展の要旨を見事についていると直感した。
 
私が反応したのは「十牛図」(じゅうぎゅうず)という言葉だ。これは禅にでてくる一種の啓蒙書で、10枚続く絵画テキストから成る。牛(悟り)を求める子供が様々な経験を通して悟りにいたる様子が描かれている。禅修行を行い、悟りに至るステップををわかりやすく説くために牛の絵を利用した解説である。禅の解説書やネット上には必ず紹介されているので興味ある人は参考にしてほしい。ここでは本展を十牛図と照らし合わせて読み解いてみよう。
 
会場3階で展示されている<今日 世界は死んだもしかすると昨日かもしれない>の33の物語は、戦争、政治、経済、環境、人口、少子高齢化などの、現在すでに私たちが直面している事実をもとに、杉本がその行く末を想像して展開させている。最終的に文明が終わるストーリーを自身のコレクションや作品によるインスタレーションで表現したもの。会場は経年経過したトタン板で囲まれている。会場規模は決して大きくはないものの、その空間は細部まで綿密に計算され作り込まれている。そこに身を置くだけで場の圧力で圧倒される。見る側はアーティストの強い表現への思いを否応なく感じてしまう。それぞれの物語自体は現代アート的なテーマとして語られてもよいだろう。ここで現代社会の様々な問題点を見つけ出して提示しているとも解釈できる。この段階は、まだ「十牛図」の、最初の尋牛(じんぎゅう)という、 悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた状況ではないか。
 
会場2階の"廃墟劇場"は、しだいに「十牛図」の5番目の牧牛(ぼくぎゅう)に続く過程だろう。ここで悟りに近づいていくわけだ。写真の中心に映画一本分の白いスクリーンが描写されている。これこそは私たち人間の一般的な社会の認識を意味する。つまり時間は過去から現在、そして未来に渡って連なっているという感覚。実は白いスクリーンは約17万枚の写真が投影された結果に現れている。過去、現在、未来が連なっているのではなく、写真1枚のように、ただこの瞬間のみが個別に存在する事実を暗に示している。禅の精神を知るための公案に近い作品群ともいえるだろう。
 
ここまでに、杉本は現代社会に横たわる様々な深刻で気の滅入るような問題点をあぶりだして展示している。それだけだとあまりにも救いがないので、2階の残り半分のスペースでは<仏の海>で解決策を提示している。京都の三十三間堂の千手観音を撮影した九点の作品と五輪塔一基からなるインスタレーション作品だ。杉本によるカタログ収録エッセーによると、平安時代当時の、末法の世に西方浄土を出現させたいという思いがこの建築には秘められている、という。ここでは、欧米の現代アート作家のようにアイデアやコンセプトを提供するのではない。杉本は、人の心の本当の姿は「無」なのだと展開する。末法再来を考える「私」自体は存在しないということ。まるで禅問答だ。
前回、トーマス・ルフの展覧会評で、"釈迦は、人間の行為そのものも結果も存在する。しかしそれを行った人間は存在しない"と語ったというエピソードを紹介した。<仏の海>もこれと同じ意味を持つ。杉本との違いはなにかというと、西洋人のルフは自己がある種の幻想や物語である点を意識しているものの、私という自己の存在と決断を肯定的にとらえる立場に立っていることだ。
 
「十牛図」の最後の絵では、悟りを開いた人が町に出て人と接している場面が描かれている。悟りを開いた禅者は人々と接して、人々が救われることが仏教の究極の目標であることを表している。これこそは杉本が考えている現代社会でのアーティストの使命、役割。その実践が本展ということを示唆しているのだろう。

作品テーマのスケールは、杉本のいままでの創作をひとまとめにするような大きなものだ。一見難解な作品展のようだが、彼は一般の人でもわかり易いヴィジュアル、オブジェを用い、インスタレーションなど駆使して表現している。

<今日 世界は死んだ>などは、非常にポップな面を持った展示になっている。<23 漁師の物語>では、アメリカ製のロブスターのおもちゃが突然立ち上がり歌い踊る。<20 ラブドール・アンジェ>では、ラブドール・アンジェが裸体のままカウチベットに横たわっている。
一般客を作品世界に誘うような様々な感情フックが散りばめられている。
前回も触れたが、これがトーマス・ルフ展との大きな違いだ。壮大で難解なテーマを、わかりやすく提示するのには非常に高度な創作能力が求められる。
世の中には様々なレベルのアート理解力を持つ人がいる。本展はそれぞれが、それなりに楽しめるように計算された上で制作されている。
私の周りの様々な人に感想を聞いてみたが、本展の評価はかなり高いようだ。杉本の作戦は見事に成功を収めていると思われる。アートや写真が好きな人は必見の展覧会だ。
 
「杉本博司 ロスト・ヒューマン」
 
2016年9月3日(土)~11月13日(日)
会場:東京都写真美術館 2・3階
時間:10:00~18:00(木・金曜は20:00まで、入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜(ただし月曜が祝日の場合は開館、翌火曜休館)
料金:一般1000円 学生800円 中高生・65歳以上700円
 

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2016年9月13日 (火)

トーマス・ルフ展 東京国立近代美術館
現代アート最前線の作品を体感しよう!

本展は、写真を使用した現代アート作品で知られるドイツ人アーティストのトーマス・ルフ(1958 - )の展覧会。キャリアを代表する18のシリーズをセレクションして、彼のキャリアの概観しようとするもの。初期作の約2メートルの巨大ポートレートから、過去の報道写真から制作された最新作まで約125点が展示されている。今秋に日本で開催されている写真関連美術展の中で最も注目されている展覧会となる。
 
展覧会のレビューを書くにあたり、ルフ作品の実像を知るために、展覧会のカタログ、IMAマガジン17号の特集記事など関連の資料に目を通した。
カタログには、「世界の探求と写真家の変容」(増田 玲)、「トーマス・ルフ「写真」の臨界へ」(中田耕市)。IMAには、ルフのインタビュー、「「画像化する写真」をめぐるアート」(若林 啓)、「写真そのものへの問い」(鈴木 崇)、「世界が無意味である真実」(山形浩生)のエッセーが収められていた。インタビュー記事の最後に「時代とともに移り変わる写真とメディアに向き合い、世界に対する新たなヴィジョンを打ち出してきたルフの全体像が、いまここに立ち現れる」とまとめている。これが多くの識者の大まかなエッセーの要約に近いのではないか。私はルフの一環したテーマは、世の中の様々な仕組みをヴィジュアル化して提示することなのだと理解した。

彼はデュッセルドルフ芸術アカデミーでベッヒャー夫妻に写真を学んでいる。アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトゥルートらとともに、「タイポロジー(類型学)」の方法論を取り組んで写真で作品制作する"ベッヒャー派"の代表的アーティストとして理解されている。

私はそれとともに、おなじドイツのオットー・シュタイナートが50年代に提唱したサブジェクティブ・フォトグラフィーとの関係性を感じる。サブジェクティブ・フォトグラフィーは、カメラの持つ特徴や撮影テクニックを駆使して、現実世界に存在する多様なフォルムやシーンを発見して自由に表現することを目指した。これは、写真家は主観的に自らの考えや人生観を表現に生かすという意味でもある。
写真表現の幅は非常に広く、造形美を追求した抽象的作品から、リアリズム的作品までを含む。これは、1920~30年代に登場した、ラズロ・モホリ=ナジ、マン・レイ、アルベルト・レンガー=パッチェらによる、新しい写真のリアリズムとフォトグラムやフォトモンタージュのような造形美を追求した、いわゆる「新興写真」を発展継承した運動だった。
シュタイナートは、「サブジェクティブ・フォトグラフィは、非対称的(ノン・オブジェクティブ)な、画面の抽象的な構成を中心とする実験写真なフォトグラムから、深みのある、美学的に満足できるルポルタージュまで、個人的な写真創造のあらゆる局面を含んだ枠組みを意味する」と語っている。
 
ルフの一連の作品を見るに自分の周りの世界を綿密に観察・探究し、情報収集しているのがわかる。以前も指摘したが、観察を行う前提として、目の前に広がる世界は見る人によって違って存在しており、客観的な見え方などないという理解がある。綿密な観察を行った結果、世界で見たり、感じるものに一連の法則を見つけ出し、一貫してそこから創作テーマへと展開していく。ルフの内面にはその法則に従った宇宙観が形作られて、それに従って世の中を解釈してきたのではないだろうか。その視点で、ストリートシーン、シティースケープ、ランドスケープ、自然植物、静物、ヌード、星空などをモチーフに作品制作してきたということだ。
巨大な作品スケールも、観客が彼の宇宙観と一体化するための仕掛けなのだ。小さいと作品を客観視してしまい一体感は生まれない。
画家が筆と絵具を通して絵画でその法則を描くように、彼は写真撮影、既存イメージと画像ソフトを駆使して写真作品を作り上げる。その写真を使用した方法論の探求自体に意味があるのではない。ここの理解ができないと、"頭でっかちな"アーティストというような評価が下されるだろう。私たちが写真などのビジュアルを見ていだく認識には、なんら客観的な根拠があるわけではないことを作品で問題提起しているのだ。
 
彼の持つ宇宙観とは、無限の宇宙の中では一人の人間の悩みなど意味をなさない、というような当たり前のことなのだと思う。彼の作品には、天文写真を用いた"Stern(星)"、土星とその衛星を素材にした"Cassini(カッシーニ)"などがある。彼は子供の頃から宇宙に関心があったという。これら宇宙と関わる作品群があるのは偶然ではないと考える。「宇宙からの帰還」(立花 隆 著)に書かれていたと記憶があるが、宇宙飛行士は、宇宙空間で漆黒の闇と明るい地球を見ると、何らかの人間を超えたパターンの存在を直感するという。ルフ少年は宇宙の観測とサンプリングを続けながら、自分なりの世界を理解する法則を探し求めたのではないか。
忙しい現代人は宇宙の中の自分の存在などをすっかり忘却して、日々の些細なことがらに心悩ませながら暮らしている。ルフは写真やヴィジュアル素材を通して、私たちにそんな当たり前の事実に気付かせようとしているのだ。
 
彼の優れている点は、そんな自分の作品さえも根源的には意味を持たないと分かったうえで確信犯で創作を行っていることだ。上記の山形浩生氏による「世界が無意味である真実」の分析に近いだろう。釈迦は、人間の行為そのものも結果も存在する。しかしそれを行った人間は存在しない、と語ったという。私たちの多くは、いくら社会に意味がないと思っても山里の草庵で一人の人生を送ることはできない。社会の中で一定の役割を担って生きていくしか選択肢はないのだ。しかし、自分なりの宇宙観を持ったうえで生きるのと、ただ社会に流されて生きるのでは、私たちに見える世界の光景はかなり違ったものになるだろう。
アートの使命は、私たちに新しい視点を提供して、自らの思い込みに気付かせることだ。ルフは、様々な写真の方法論を駆使して、アートの王道を行くテーマを私たちに問い続ける。強いて欠点をあげるとすれば、テーマのスケールがあまりにも大きすぎて伝わりにくい点だろう。多くの人は、将来にわたって"自己の感覚"に囚われ続けながら生きていくのだ。
そのような人はルフのメッセージに気付くことすらなく、写真の表層をただ通り過ぎていくだろう。
例えば、同様のメッセージを持つ杉本博司の"海景"などは、一般の人でも海と空と空気による抽象的なヴィジュアルから彼の世界観へ入って生きやすい。アンドレアス・グルスキーも、一般人がリアリティーを感じやすい高度消費社会の最前線のヴィジュアルを提示している。大きなテーマには、わかり易いヴィジュアルがセットされる場合が多いのだ。たぶんその方が作品を売りやすいという事情もあると思う。
しかし、ルフはインタビューで"人がまだ見たことのなりような新しイメージを生みだしたいのです"と語っている。もしかしたら、彼は確信犯で一般の人が既視感を持たないヴィジュアルを制作しているのかもしれない。
 
最後に彼の作品相場にも触れておこう。
2016年春にニューヨークのDavid Zwirnerで開催された"Thomas Ruff, press++"展では、2メートル近くある巨大作品が8.5万ユーロ(@118/約1003万円)で販売されていた。ルフはオークションでも頻繁に取引される人気アーティストだ。相場はシリーズごとにかなり異なるが、Stern (Stars) の人気が高いようだ。2015年5月のササビーズ・ニューヨークでは、"STERN 16H 30M/-50°,1989"が18.75万ドル(@110/約2062万円)で、2012年11月のフリップス・ニューヨークでは、"21h 32m/-60˚,1992"が19.45万ドル(@110/約2139万円)で落札されている。
 
トーマス・ルフ展は、写真やアートに興味を持つ人には必見の展覧会だ。いろいろ考える前に、まずは作品のスケールや存在を会場内で体感してほしい。現代アート系の作品は、写真集やウェブ上の画像だけを見ても決して理解できない。自分自身で体験し、感じて、そして考えなければならないのだ。
 
トーマス・ルフ展
東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー 
2016年8月30日(火)~2016年11月13日(日) 
開館時間:10:00-17:00 (金曜日は10:00-20:00)
*入館は閉館30分前まで 
休館日:月曜日(9月19日、10月10日は開館)、9月20日(火)、10月11日(火) 
 
観覧料: 当日(前売/団体)
一般  1,600(1,400/1,300)円
大学生 1,200(1,000/900)円
高校生  800(600/500)円
 
 

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2016年6月28日 (火)

カルロス アイエスタ +
ギョーム ブレッション 写真展
「Retrace our Steps/
ある日人々が消えた街」

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Ⓒ Carlos Ayesta + Guillaume Bression

日本人は過去を忘れやすい国民性を持つと、メディアなどでいわれることが多い。原発事故後の福島の報道は、5年が経過したいまは以前よりもはるかに少なくなってきている。
今回、銀座のシャネル・ネクサス・ホールで開催されている、ベネズエラ出身の写真家カルロス アイエスタ(Carlos Ayesta)とフランス人写真家のギョーム ブレッション(Guillaume Bression)による写真展「Retrace our Steps ある日人々が消えた街」は、原発事故後の福島を多方面からドキュメントしたものだ。この写真家デュオは、津波と原発事故が環境や人間生活にどのように影響を及ぼしたかを多様に表現するために、福島第1原発周辺の無人地帯に何度も訪れたという。
 
展示は「光影」、「悪夢」、「不穏な自然」、「パックショット」、「回顧」の5つのパートで構成されている。各内容を簡単に説明しておこう。
「光影」」(2011-2013)、避難地域の人気のない夜の街並みをフラッシュを利用して撮影。展示空間では暗闇を再現している。
「悪夢」(2013-2014)、放射能のような不可視のものを明らかにするために演出写真の手法を取り入れている。汚染地の境界線のあいまいさを表現するためにプラスチック製の巨大泡やセロハンを利用。  
「不穏な自然」(2014-2015)、放置された地域が廃墟と化し、人工物の多くが木や草に覆い尽くされている状況を撮影。
「パックショット」、立ち入り禁止区域内のスーパーで見つけた、賞味期限が切れて遺物と化した食品などを現地のアスファルト上で撮影。
「回顧」(2014)、被災された人たちとのコラボ作品。帰宅困難地区の様々な場所に立ち入ってもらい、和食屋、ミュージックストアー、スーパー、美容院、パチンコ屋、オフィス、店舗などで、被災前に戻ったかののように振るまってもらい撮影。
 
本作の本質は現代社会における現象を伝えるドキュメンタリー写真だろう。アート的な様々な方法論が用いられているが、それらに特に目新しいものはない。
ギョーム・ブレッションは、インタビューで「どんなことが起きているのかを伝えることが僕たちの役目だと考えています。それを見た人たちが自分たちは何をしたのか、何をすべきかを考え始める。それが僕たちの狙いなのです」と語っている。またプレス資料やフライヤーの巻頭にも「僕たちの目的は、福島第一原発事故によって周辺地域に起きた影響を、つぶさに記録することだった。」というメッセージが引用されている。
アートの解釈法にもよるが、少なくとも制作者二人は現代アート的な意識で制作しているわけではないと思う。メイキングの映像を見るに作品はデジタルカメラで撮影され、展示作はインクジェットで出力されていると思われる。アート系の人はプリントの完成度を高めるために、デジタル技術に過度に頼ることなくもっと現場のライティングに技巧を凝らす。あえて大型フォーマットのアナログカメラを使用するかもしれないだろう。
だいたい現代アート系アーティストは積極的に大震災や原発事故を取り上げない。作品テーマの社会的インパクトが強すぎるので、その前にはどんな作家性も色あせてしまからだ。しかし、今回の展示会場がシャネル・ネクサス・ホールであることから、アート的な作品提示は絶対に必要であった事情はよく理解できる。

会場内の展示作品には一貫したトーンが感じられた。(真っ暗な空間で展示されていた「光影」シリーズ以外の作品)ただしこのあたりは技術的なイッシューだと解釈する人もいるかもしれない。私には現実というよりも、何か夢心地のようにシーンを見ている気分があった。それを伝えるのにどのような言葉が的確か考えてみた。もしかしたら死者が現社会に舞い戻ってかつて自分が存在した場所をみたら、このような感じになるのではないかと思いついた。私たちは死んだ後に霊になるのか、また霊界から一時的にかつていた場所に戻れるかなどは生きている限り知る由もない。しかし、生きている人間の想像できるのは、たぶん現実のリアリティーをあまり感じられない風に見えるだろうということだ。死んでいるがゆえに同じ場所でも存在する次元が違うはずだからだ。
作者たちがこのようなことを意識してプリント制作したかは不明だ。しかし、テーマが非常に重いものであるがゆえに、今回展示されていたやや現実とずれたトーンは単純なドキュメント写真ではないことを暗示している。作品テーマとの関連を語れると直感した。そう解釈すると、プラスチック製の巨大泡やセロハンを利用した演出写真の「悪夢」シリーズは、単独のシリーズにしたほうがよかったのではないか。これが本展に含められたのは、やや写真家たちの独りよがりのように感じさせられた。
アート的な作品提示は、それっぽい方法論のアプローチがなくても機能するのだと思う。しかし、非常に繊細なテーマを取り扱った写真作品であり、諸事情から確信犯で行ったとも解釈できる。
本展では、色々な展示方法や撮影アプローチに目を奪われることなく、彼らが慎重に計算した上で提示している原発事故が巻き起こした悲劇の本質をしっかりと受け止めたい。
 
■カルロス アイエスタ + ギョーム ブレッション 写真展
「Retrace our Steps ある日人々が消えた街」
会期:2016年6月24日(金)~7月24日(日)
   12:00~20:00 (入場無料・無休)
会場:シャネル・ネクサス・ホール
   中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4F
 

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